インドネシア東部地域の開発政策を議論する際、資源の不足とならんで「情報の欠如」という話が出てくる。州政府では「開発計画を策定するための基礎データ・情報がない」ことが問題とされ、また実業家と話をしていると「市場情報がないのでマーケティングできない」という話に落ちつく。はたして情報はないのか。
インドネシア東部地域の情報量がジャカルタや東京に比べて少ないことは確かだ。情報量にも需給関係が働くことを考えれば現在のインドネシア東部地域における情報賦存状況はしかたがない面もある。その一方で情報はあるのにそれを取得するコストを払いたがらない傾向が実業家などにうかがえる。
「いいものを作ったのだからバイヤーが来るまで待てばいい」という意識で自ら市場情報を探す行動をとらないのである。それよりも問題なのは、情報の共有が難しいことである。州開発企画局でたとえば州民所得の統計を探す場合「担当者がいないので統計が出てくるまで数日かかる」と平気で言われる。
統計などの情報は担当者がファイルし、鍵のかかる引き出しにしまう。でもその担当者は統計資料を管理するのが役目であって当該情報の収集や加工・分析をする役割は与えられていない。
ある議論で地域開発政策を進めるためには情報の共有が必要だと主張したところ「情報がカネになる以上それを占有しようとするのは当然」と一蹴された。南スラウェシ州の有力者や実業家は、小さな自分たちのグループを作り、その利害に基づいて行動する傾向がある。
たとえグループAもグループBも共にある計画がいいものだと認識していても、それがグループBによって提案されたものであれば、それだけでグループAはその計画を妨害することさえある。こうした状況でグループAとグループBが情報を共有することは考え難い。
小さなグループが自らの短期的な利益のみを最優先に考え、他のグループと情報を共有しようとしないのである。インドネシア東部地域でも誰もがグローバリゼーションを口にし、インターネットが利用可能な時代となった。インターネットが情報共有の推進にどんなインパクトを与えるかまだ不明だが旧来の人々の行動に再検討を迫るための環境づくりが少しずつ始まっていることだけは確かである。
マカッサルからみるとはるか離れたジャワ島でここ数年急速な工業化が進んでいるように感じる。実際、国内随一の穀倉地帯であったジャワ島の水田や畑が1990年代になると急速に消滅し、工業用地へ転換されていった。
ジャワ島がなおさら遠くなる感じである。ここ南スラウェシ州は今ではジャワ島と並ぶ穀倉地帯となっているが、工業化はまだまだ遠い世界だ。以前、当地を訪れたマレーシア人の大学生に開口一番「セミコンダクターの工場はどこにあるか」と聞かれ、軽いショックを覚えたことがある。
はたして現在のジャワ島で起こりつつあるような工業化の波はいずれこのインドネシア東部地域にも及ぶのだろうか。ジャワ島を離れる産業 近年ジャワ島外へ移転させる予定の産業が指摘されはじめた。製糖業がその代表例としてあげられる。1997年当時、政府はジャワ島にある56の製糖工場のうち段階的に27工場を閉鎖する計画であった。
ジャワ島の多くの製糖工場の生産設備は植民地期のもので老朽化していて生産が非効率的という理由からである。砂糖の国内生産は1996年現在200万トン(うち7割がジャワ島)で、それ以外に年間100万トンを輸入している。
ジャワ島の製糖工場を閉鎖する代わりにスマトラ島のランポン州に加えて南スラウェシ州、中カリマンタン州、東カリマンタン州、西ヌサトゥンガラ州、東ヌサトゥンガラ州、マルク州、東ティモール州(当時)、イリアン・ジャヤ州などの東部地域に新たに製糖工場を建設する計画を進めていた。これらの地域の乾燥地でのサトウキビ栽培の潜在生産力が高いからである。
この多くの新製糖工場を建設するのは主に民間部門である。たとえば1日当たり8000トン(サトウキビ換算)の生産能力をもつ工場を建てるには約2500億ルピア(約125億円)の投資と2万ヘクタールのサトウキビ畑が必要であり、政府資金では難しい。
東南スラウェシ州では1997年4月からクンダリ県で年産10万トンをめざす製糖工場の建設が開始された。イリアン・ジャヤ州では、繊維産業で有名なテクスマコ・グループが同州南部のメラウケ県に綿花、カシューナッツ、オイルパームと併せて製糖工場を建設する予定であった。南スラウェシ州では東北部のワジヨ県にサリムーグループが年産6000トンの工場建設を予定していた。
越僑がベトナムに帰国して生活していくのは困難であったようである
1996年~1998年の段階でも、越僑がベトナムに帰国して生活していくのは困難であったようである。一例を挙げよう。米国から1997年に里帰りしたトゥオン氏(当時45歳)に話を聴いたことがある。彼は米国で展開していた建築資材の会社をベトナムでも立ち上げ、祖国の復興のために役に立ちたいと家族の反対を押し切って帰国した。
だが会社を設立するためにホーチミン市の関係部局に行ったところ、多額の袖の下を支払わないと経営登録許可はすぐには出せないと言われたという。不正は出来ないといって賄賂の支払いを拒否したところ、許可は滞在期間中には出なくなった。それで、米国に戻らざるを得なくなったという。
いったん米国に戻って再度1年後にホーチミン市に戻ってきたが、他にもいろいろな嫌がらせを受けたという。たとえば、親戚から借りた自家用車で街を走っていたところ、交通警官に止められて運転免許証の提示を求められて越僑だと分かると車両不整備だという理由にもならない理由で多額な反則金を請求されたという。
結局、まだ時期尚早でとても越僑がビジネスを行なう環境ではないと諦めたという。こういう事態は最近まで続いていたが、事態の改善に決定的だったことは2000年に施行された企業法だと言われている。経営登録手続きの公式化と簡素化が図られた。これによって、袖の下を払わずに、越僑でも誰でも会社の経営登録許可を得ることが出来るようになったのである。そして民間企業に課されていた諸規制も併せて撤廃された。
だが、それでも共産党政府と旧「南」政府関係者が多い越僑との間には深い相互不信がわだかまっていた。戦後30年以上を経過してようやくベトナム政府も本格的に越僑を受け入れる体制を構築した。長い準備期間の後、2007年8月からどの国の国籍を取得していても両親どちらかがベトナム国籍を有していたことで申請人がベトナム人であることが証明されれば本国へはビザなしで渡航することが許可されることになった。
具体的に言うとビザなし帰国を希望する者は各国の大使館か領事館に出頭してベトナム人であることが証明でき、かつ反体制の政治活動をしない誓約書を提出して審査に合格すれば、証明書が発行される。その証明書を入国時に提示すれば、入国出来るというシステムである。
この許可を一度取得して事故さえ起きなければ、越僑は自由に祖国に入国できるという利点が越僑側にはある。他方、ベトナム政府にとっても利点がある。各国出先機関で事前調査をして、越僑をスクリーニング出来るからである。つまり危険な同胞はブラックリストに掲載して入国させずに害を及ぼさないと判断した越僑はビザなしで入国を許可するという、いわば全世界越僑管理システムを作り上げたのである。世界に散らばる越僑の実態を本気で把握しようとするベトナム政府の決意が表われている。
さらに外国籍のままでもベトナムの土地や建物を合法的に取得出来るという制度を新設した。それまではベトナム国籍の者しか土地建物を取得できず、越僑は国籍が違えば国内で自分の家を購入することもままならなかった。戦争終了後32年たって初めて越僑が正式に帰国して定住することが認められたのである。越僑は2006年には実質100億ドルにおよぶ祖国への送金をしている。この越僑の協力をどう得ることが出来るかにベトナムの将来がかかっている。
だが会社を設立するためにホーチミン市の関係部局に行ったところ、多額の袖の下を支払わないと経営登録許可はすぐには出せないと言われたという。不正は出来ないといって賄賂の支払いを拒否したところ、許可は滞在期間中には出なくなった。それで、米国に戻らざるを得なくなったという。
いったん米国に戻って再度1年後にホーチミン市に戻ってきたが、他にもいろいろな嫌がらせを受けたという。たとえば、親戚から借りた自家用車で街を走っていたところ、交通警官に止められて運転免許証の提示を求められて越僑だと分かると車両不整備だという理由にもならない理由で多額な反則金を請求されたという。
結局、まだ時期尚早でとても越僑がビジネスを行なう環境ではないと諦めたという。こういう事態は最近まで続いていたが、事態の改善に決定的だったことは2000年に施行された企業法だと言われている。経営登録手続きの公式化と簡素化が図られた。これによって、袖の下を払わずに、越僑でも誰でも会社の経営登録許可を得ることが出来るようになったのである。そして民間企業に課されていた諸規制も併せて撤廃された。
だが、それでも共産党政府と旧「南」政府関係者が多い越僑との間には深い相互不信がわだかまっていた。戦後30年以上を経過してようやくベトナム政府も本格的に越僑を受け入れる体制を構築した。長い準備期間の後、2007年8月からどの国の国籍を取得していても両親どちらかがベトナム国籍を有していたことで申請人がベトナム人であることが証明されれば本国へはビザなしで渡航することが許可されることになった。
具体的に言うとビザなし帰国を希望する者は各国の大使館か領事館に出頭してベトナム人であることが証明でき、かつ反体制の政治活動をしない誓約書を提出して審査に合格すれば、証明書が発行される。その証明書を入国時に提示すれば、入国出来るというシステムである。
この許可を一度取得して事故さえ起きなければ、越僑は自由に祖国に入国できるという利点が越僑側にはある。他方、ベトナム政府にとっても利点がある。各国出先機関で事前調査をして、越僑をスクリーニング出来るからである。つまり危険な同胞はブラックリストに掲載して入国させずに害を及ぼさないと判断した越僑はビザなしで入国を許可するという、いわば全世界越僑管理システムを作り上げたのである。世界に散らばる越僑の実態を本気で把握しようとするベトナム政府の決意が表われている。
さらに外国籍のままでもベトナムの土地や建物を合法的に取得出来るという制度を新設した。それまではベトナム国籍の者しか土地建物を取得できず、越僑は国籍が違えば国内で自分の家を購入することもままならなかった。戦争終了後32年たって初めて越僑が正式に帰国して定住することが認められたのである。越僑は2006年には実質100億ドルにおよぶ祖国への送金をしている。この越僑の協力をどう得ることが出来るかにベトナムの将来がかかっている。
— posted by チャッピー at 03:09 pm
ムガル朝の太祖であるバーブルは中央アジアのモンゴル族系の出自であった
ムガル朝の太祖であるバーブルは中央アジアのモンゴル族系の出自であったが、アラビア人の歴史家などがモンゴルをムガル(またはモグル)と呼んだので、ムガル朝という名で知られるようになったのである。バーブルは1511年に、カーブルを拠点として、かねて念願していた緑豊かなインド遠征の軍を起こし、内紛で衰退しつつあったロディ朝の軍を破り、一気にデリーとアクラを占領して、自らインドの皇帝であると宣言した。
その後1530年に病死するまでに、彼はほぼ北インド全域を支配下に置いている。ムガール帝国が南インドにも版図を拡大したのは、積極的な領土拡大政策を展開した3代アクバルの時代である。彼の50年に及ぶ長い治世において、ムガル朝は15の州を抱え広大な地域を支配する帝国としての基盤が確立された。
アクバルが死去した1605年から六代のアウランゼーブ帝が亡くなるまでの1世紀ばかりは、帝国の最盛期であった。帝国の物産は豊かであり、世襲制でない適材適所の採用原理に基づく官僚制が整備され、国内の交通網も整備された。東西交易の中心に位置していたことによる英大な収益もあり、銀の流人が続いていた。
5代のジャー・ジャハーン帝(在位1628年~1658年)が愛妃のために造営し、今なおインドを代表する建造物として世界遺産に登録され、国内外から多数の観光客を集めている白亜のタジマハールは、最盛期にあった帝国の豊かな富を象徴している。しかし18世紀に入ると、いくつかの問題点が浮上してきた。第1は財政問題である。度重なった外征や反乱鎮圧のための軍事費支出が大きな負担になっていた。政府は官位を乱発したが官位に見合った給与は保障されていなかった。
そこでアクバル帝時代の俸給制から土地の徴税権による収入をあてる領地制に変えられた。領地を得た役人は短期間で多くの収入を得ようとして農民からの収奪を強化したため、農村を荒廃させる結果となった。第2に、宗教政策である。アクバルは臣民の多数を占めるヒンドゥとの融和が重要であると考え、イスラム教では異教徒に課すことを通例としていた人頭税をも廃止した。さらに自らヒンドゥの妃を迎えることもしたのである。
アクラ郊外に造った宮殿は、イスラム様式を基本としながら、ヒンドゥ様式をも取り入れている。ところが、アウランゼーブ(在位1658年~1707年)はスンニ派の熱心な信者であったために「帝国のイスラム的性格を回復」しようと考え、宮廷の風習からヒンドゥ色を一掃し、ヒンドゥに対する敵意を露わにした宗教的差別政策をとるようになった。
「異端者の寺院学校をすべて破壊せよ」との命令や、人頭税の復活はその例である。その結果は宗教と地方の民族感情が混合した反乱や抵抗運動を引き起こすことになった。しかし村落における民衆の生活が、宗教の相違のみによって対立関係にあったなどと考えるのは誤りである。両教徒は、貴族や士族も含め、政治的な利害対立が絡まない限り、普段は平和に共存していたのである。
イスラムは一神教であり、ヒンドウは多神教であるから教義的に相容れない、だから常に対立するのだという説をなす者がいるが、これは一知半解の意見であり、歴史の実態をキチンと押さえた議論が必要である。宗教対立には実は政治的・経済的な世俗の利害対立が絡まり合うことが圧倒的に多いのである。第3に、皇位継承問題がある。イスラム王朝ではしばしばみられることであるが、王位継承権をめぐって血なまぐさい対立抗争が起きることが稀ではない。
ムガール帝国では皇位継承に関する成文法がなかったために、皇帝の死後王位継承者達の間で抗争がしばしば起こされた。この抗争は有力な貴族や武将を巻き込んで行われることが多く、それは帝国の安定を根底から揺るがすことになった。第四に、地域支配勢力の問題である。18世紀半ばになると、帝国の崩壊過程は誰の目にも明らかになりつつあった。力を備えた地方政権は中央からの自立を進め、あるいは帝国に対して反旗を翻した。
中央の支配力は低下し、帝国内の分権化が進行した。ところが、こうして地方の支配圏を固めた太守のなかには、自分達の利益さえ守られれば外国勢力と簡単に妥協することをいとわない者が少なくなかった。外国の支配に対して民族的利益を守るため一致団結して戦うという共同行動がとれないだけでなく、利害の対立していた他の地方政権をやっつけるために、進んで外国と手を組むということも稀ではなかったのである。
その結果外国勢力は、各個撃破で抵抗勢力を次々と支配下に置くことが容易になったのである。第5に海への備えである。歴史上亜大陸を支配した勢力は、西北のアフガニスタンを経由してやってきた内陸国であった。中央アジアの内陸から起こり次第に亜大陸に版図を広げてきたムガール朝も例外ではない。
それまで北インドに限られていた版図を拡大し、海岸に接した地方を支配下に置き海外貿易によって多大の収益を挙げていたにもかかわらず、基本的には内陸勢力、陸地志向勢力であり、海洋志向の帝国ではなかった。この結果、海から亜大陸支配を狙ってくる武装した海上勢力に対しては、十分な備えを欠いていたのである。これが国家を挙げて海外膨張を競い合った西欧列強に対して、大きな弱点となったといえる。
その後1530年に病死するまでに、彼はほぼ北インド全域を支配下に置いている。ムガール帝国が南インドにも版図を拡大したのは、積極的な領土拡大政策を展開した3代アクバルの時代である。彼の50年に及ぶ長い治世において、ムガル朝は15の州を抱え広大な地域を支配する帝国としての基盤が確立された。
アクバルが死去した1605年から六代のアウランゼーブ帝が亡くなるまでの1世紀ばかりは、帝国の最盛期であった。帝国の物産は豊かであり、世襲制でない適材適所の採用原理に基づく官僚制が整備され、国内の交通網も整備された。東西交易の中心に位置していたことによる英大な収益もあり、銀の流人が続いていた。
5代のジャー・ジャハーン帝(在位1628年~1658年)が愛妃のために造営し、今なおインドを代表する建造物として世界遺産に登録され、国内外から多数の観光客を集めている白亜のタジマハールは、最盛期にあった帝国の豊かな富を象徴している。しかし18世紀に入ると、いくつかの問題点が浮上してきた。第1は財政問題である。度重なった外征や反乱鎮圧のための軍事費支出が大きな負担になっていた。政府は官位を乱発したが官位に見合った給与は保障されていなかった。
そこでアクバル帝時代の俸給制から土地の徴税権による収入をあてる領地制に変えられた。領地を得た役人は短期間で多くの収入を得ようとして農民からの収奪を強化したため、農村を荒廃させる結果となった。第2に、宗教政策である。アクバルは臣民の多数を占めるヒンドゥとの融和が重要であると考え、イスラム教では異教徒に課すことを通例としていた人頭税をも廃止した。さらに自らヒンドゥの妃を迎えることもしたのである。
アクラ郊外に造った宮殿は、イスラム様式を基本としながら、ヒンドゥ様式をも取り入れている。ところが、アウランゼーブ(在位1658年~1707年)はスンニ派の熱心な信者であったために「帝国のイスラム的性格を回復」しようと考え、宮廷の風習からヒンドゥ色を一掃し、ヒンドゥに対する敵意を露わにした宗教的差別政策をとるようになった。
「異端者の寺院学校をすべて破壊せよ」との命令や、人頭税の復活はその例である。その結果は宗教と地方の民族感情が混合した反乱や抵抗運動を引き起こすことになった。しかし村落における民衆の生活が、宗教の相違のみによって対立関係にあったなどと考えるのは誤りである。両教徒は、貴族や士族も含め、政治的な利害対立が絡まない限り、普段は平和に共存していたのである。
イスラムは一神教であり、ヒンドウは多神教であるから教義的に相容れない、だから常に対立するのだという説をなす者がいるが、これは一知半解の意見であり、歴史の実態をキチンと押さえた議論が必要である。宗教対立には実は政治的・経済的な世俗の利害対立が絡まり合うことが圧倒的に多いのである。第3に、皇位継承問題がある。イスラム王朝ではしばしばみられることであるが、王位継承権をめぐって血なまぐさい対立抗争が起きることが稀ではない。
ムガール帝国では皇位継承に関する成文法がなかったために、皇帝の死後王位継承者達の間で抗争がしばしば起こされた。この抗争は有力な貴族や武将を巻き込んで行われることが多く、それは帝国の安定を根底から揺るがすことになった。第四に、地域支配勢力の問題である。18世紀半ばになると、帝国の崩壊過程は誰の目にも明らかになりつつあった。力を備えた地方政権は中央からの自立を進め、あるいは帝国に対して反旗を翻した。
中央の支配力は低下し、帝国内の分権化が進行した。ところが、こうして地方の支配圏を固めた太守のなかには、自分達の利益さえ守られれば外国勢力と簡単に妥協することをいとわない者が少なくなかった。外国の支配に対して民族的利益を守るため一致団結して戦うという共同行動がとれないだけでなく、利害の対立していた他の地方政権をやっつけるために、進んで外国と手を組むということも稀ではなかったのである。
その結果外国勢力は、各個撃破で抵抗勢力を次々と支配下に置くことが容易になったのである。第5に海への備えである。歴史上亜大陸を支配した勢力は、西北のアフガニスタンを経由してやってきた内陸国であった。中央アジアの内陸から起こり次第に亜大陸に版図を広げてきたムガール朝も例外ではない。
それまで北インドに限られていた版図を拡大し、海岸に接した地方を支配下に置き海外貿易によって多大の収益を挙げていたにもかかわらず、基本的には内陸勢力、陸地志向勢力であり、海洋志向の帝国ではなかった。この結果、海から亜大陸支配を狙ってくる武装した海上勢力に対しては、十分な備えを欠いていたのである。これが国家を挙げて海外膨張を競い合った西欧列強に対して、大きな弱点となったといえる。
— posted by チャッピー at 02:04 pm