難局を乗り切りるためにできること!返済が苦しい時は返済方法を見直す

お給料が減ったり、ボーナスが減ったりして家計が苦しくなっている人も多いと思います。住宅ローンの返済が厳しくなることもあるでしょう。そんな時は、放っておいて事態を一層困難にしてしまうより、早めの対策が賢明です。ローンの返済方法の変更は金融機関によって対応が違います。また、返済の状況、収入の状態など個別の事情も違いますので、まずは金融機関に相談してみることになります。

例えば返済方法の変更としては、ボーナスが激減してボーナス払いが苦しくなった場合、毎月払いとボーナス返済の割合を見直し、毎月払いを増やし、ボーナス払いのウェートを減らすという対策があります。また、金融機関によってできないケース、保証会社の承認が必要なケースもありますが、元金均等返済で借りているなら元利均等返済に変えることで月々の返済額を減らすこともできます。

元金均等返済は住宅ローンの元金を毎月一定額で返済していくのに対し、元利均等返済は元金と利息の合計額が一定になるように返済していく方法。元金均等返済は元金を先に多く返していくので、元利金等返済より総返済額が少なくなるというメリットがあります。元利均等返済に変更した場合、総返済額は増えてしまうかもしれませんが、月々の支払いを減らしてしのぎたいという場合には検討してみるのも1つです。

「フラット35」は返済期間の延長も

民間金融機関と住宅金融支援機構が提携した住宅ローン「フラット35」の場合は月々の返済に困った場合の返済方法の変更が制度化されていて、メニューは大きく分けて3つのタイプがあります。

  1. 収入が大幅に減って返済が大変になった場合は返済期間の延長により毎
    月の返済額を減額
  2. 子どもの教育費や入院など一定期間だけ苦しい場合、一定期間
    だけ減額
  3. ボーナス返済が負担になっている場合は、毎月返済とボーナス返済の内
    訳の変更、ボーナス返済の取り止め、返済の内訳の変更と返済期間の延長の組み合
    わせ

などのメニューがあります。こうした手続きは住宅ローンを返済している金融機関にて相談した上で変更可能かどうかの審査があります。また、返済方法を変更することによって、総返済額が増えてしまうこともあることは頭に入れておきましょう。

家計の無駄を見直す努力も

民間金融機関の住宅ローンの場合は返済が苦しくなった場合の制度が決まっているわけではないので一般に返済期間の延長や減額は難しい面があり、返済方法の変更も個別に審査しての対応になっています。

住宅ローンの返済が苦しいという場合、家計を見直して無駄な部分を削減したりする努力も大切だと思います。今までの生活の延長上で考えていると無駄はないと思いがちですし、生活を変えるのは大変ですが、何を優先させるかを家族で話し合い、難局を乗り切りたいものですね。

— posted by チャッピー at 01:17 pm  

 

経済状況をみながら対策を!住宅ローンの借り換えも検討してみよう

住宅ローンをせっせと返しているから問題ないと思っていませんか。ただ返済しているだけでなく、自分の住宅ローンの全貌、つまり借り入れ金利、残高、返済期間なども、定期的に確認して、その時の経済状況をも見ながら対策を考えることも大事です。

例えば、自分か住宅ローンを借りた時より、金利が低下していて、低い金利で借り換えることができれば、その利息分が得になりますね。そういう場合は、借り換えを検討してみることも1つの方法です。一般には「残高1,000万円以上、残存期間10年以上、金利差1%以上」が借り換えの目安と言われています。

借り換えには事務手数料、登録免許税など諸費用がかかりますので、その分も忘れずに計算に入れましょう。金融機関のホームページなどで借り換えのシミュレーションなどができますので、自分のケースでは得になるかどうか、検討してみるといいでしょう。

借り換えできない場合も

特になるからと言っても、必ずしも借り換えができない場合もあります。例えば、不動産価格が値下がりしていて、担保評価額が借入額より低い場合には、借り換えが難しい。ただし、一定の条件で借り換えが可能な金融機関もあります。また、銀行の住宅ローンの場合、団体信用生命保険へ加入できない場合、借り換えができないので注意が必要です。

住宅ローンは借り入れ時の金利が返済期間にわたって適用される「固定金利型」金利動向によって金利が変わる「変動金利型」3年、5年、10年など決まった期間が固定金利で、その期間が明けると変動金利型か固定金利型かを選択する「固定金利選択型」があります。

一般に変動金利型は固定金利型より金利が低いので、固定金利から変動金利型に借り換えると金利が低くなりますが、変動金利型は将来、金利が上がれば、それにつれ返済額が増えます。目先だけでお得だと判断しないようにしたいものです。

「フラット35」で借り換えも

民間金融機関と住宅金融支援機構が提携した最長35年の長期固定住宅ローンの「フラット35」は、今までは新規のマイホーム購入への融資だけでしたが、経済危機対策で借り換えもできるようになりました。旧住宅金融公庫のローンや民間の住宅ローンからの借り換えも可能です。

変動金利型や短期の固定金利選択型から借り換える場合、「フラット35」は長期固定金利ですので、返済期間を通じて返済額が決まっているため、プランが立てやすく安心な面があります。また、当初の住宅ローンより返済期間の長いローンに借り換えることで月々の返済額を少なくすることができる場合もあります(返済期間は年齢、当初の住宅ローンの経過年数による)。

またこの場合、総返済額が多くなってしまうこともあります。借り換えにおいても自分たちのライフプランや家計の状況を考え、一番いい方法を選択していきましょう。

— posted by チャッピー at 01:07 pm  

文化や歴史の多様性

そのような根本思想にあっては、自己理解と他者理解と公共世界理解が根源的に結びつかなければならないという意味あいをこめて、本書では「自己-他者-公共世界」理解という表現をたびたび用いてきました。では、グローカルな公共哲学は、一体どのような「自己-他者丿公共世界」理解を基盤とするべきでしょうか。一九、二〇世紀の公共哲学的自己論を振り返るならば、「国民的な自己」は、フィヒテの思想に代表されるように、帝国主義・植民地主義に抵抗する「近代的自己」という側面をもっていました。そしてそれは、たとえば、近代中国などにみられるような、植民地主義に抵抗する「抵抗のナショナリズム」の担い手のモデルとなりうるものでした。また他方、それは、日本での福沢諭吉に代表されるように、穏健な漸進的国内改革の担い手としての「近代的自己」としても描かれました。

しかしそのような自己に対し、「非国民としての他者」は、論理必然的によそよそしいものとならざるをえなかったのです。そしてこのよそよそしさは、新しき自己の生成にとって他者との和解が必要と考えたヘーゲルですら、非ヨーロッパ的な人間を遅れた人間と片づける「ヨーロッパ(ゲルマン)中心主義」をとったことによく現れています。それに対し、二一世紀のグローカル公共哲学はむしろ18世紀末にとなえられたカントの「世界市民的自己」という理念に立ち返るところから出発しなければならないでしょう。

カントにとって「近代的自己」となることは第一義的に世界市民的な意識をもつことでした。それは世界政府を想定せずに永久平和をめざす諸国家連合の一員というレベルで、各自が十分もちうる意識とされたのです。

この思想の伝統はストア派のコスモポリタニズムに由来するように思われますが日本でも安藤昌益の宇宙論的で平等主義的な社会観や横井小楠の「公共の天理」思想に端緒がうかがえます。

21世紀のグローカル公共哲学の基盤となる自己論においては「世界市民的自己」を現代的に「地球市民的自己」と言い換えてそれを不可欠な構成要素とすべきことをまず強調しなければなりません。具体的にそれは「地球レベルでの公共性」を念頭におき「他者と協力」してグローバルな諸問題と真剣に取り組む自己として理解されるでしょう。

しかしまたアングロアメリカ型のモノカルチュラルで均質なグローバリズムに対して「文化や歴史の多様性」を相互に理解しあう21世紀のグローバル公共哲学は「地球市民的自己」によって自己以外の次元を包摂してしまうような普遍主義をとることもできません。

なぜならそうした普遍主義はグローバリズム同様に文化の差異や公共空間の多様性の認識に関してあまりに無頓着になりがちだからです。思想史的に振り返るならばそのような普遍主義批判のプロトタイプ(原型)はカントの論争相手ヘルダーの思想にすでに見出すことができます。

言語学者でもあったヘルダーは言語の違いが各文化の差異やローカリティを特徴づける決定的な要因であり、その差異を殺すのではなく活かす方向に人類は進まなければならないと主張しました。

そうでなければある特定の言語ないし文化が他の言語や文化を支配するという「文化的帝国主義」が幅をきかすようになると考えたのです。

ヘルダーにとって警戒すべきは何よりも普遍主義という名の文化的帝国主義や強国による文化支配でした。これに対抗する「多文化の共存的発展」を彼は提唱したのです。しかし19世紀以降カントの「世界市民」の理念が裏切られたようにこのヘルダーの「多文化共存」の理念も大きく裏切られる方向に歴史は展開しました。

— posted by チャッピー at 12:42 pm  

国王の「足るを知る経済」

サゴンナコン県の人口は111万人。東北タイ19県のなかでは10番目に位置する。その中規模の県にラーチャパット大学のほか首都圏に本校を置くカセサート大学、ラームカムヘーン大学、ラーチャモンコンエ科大学も地方分校を開設していたから大学と大学生の数はすでに多すぎるほどであった。

ラーチャパット大学の前身は教員養成学校であり、教育学部の学生も2400名と一番多い。しかし学生に人気のある学科は筆頭が工学部コンピュータ学科であり、以下、経営学部の会計学科、観光学科、人文学部の英語学科の順であった。学費は1学期が1,500バーツ(15コース)、年間で3,000バーツ。構内に学生寮がないため自宅通学ができない学生は共同で市内のアパートに部屋を借りる。生活費は月1,500バーツから2,000バーツ(5,600円)ということであった。

驚いたのは昼間コースの学生のじつに8割が農民の子弟だったことである。もちろん両親に大学に通わせるだけの資力はない。ではどうするか?タイではチャワリット政権の時代に(1996年)国家育英基金を設置し、高校から大学院までの学資を無利子で融資する制度を開始した。

2003年当時、年間予算は280億バーツ(780億円)という巨額なもので、利用する学生の数は210万人にも達していた。サゴンナコン県の学生の大半も、この国家育英基金を利用することで大学への進学が実現したのである。問題は進学ではなく卒業後の就職である。

東北タイの東北に位置するサゴンナコン県で大卒者を採用する職種といえば地方官庁、学校、銀行や生命保険会社の地方支店、ホテルくらいしかない。このうち公務員の新規採用は通貨危機のあと削減もしくは中止になっていた。県が募集する小中学校の教員の競争倍率は当時200倍にも達した。

ただでさえ数が少ない民間の企業や工場でも、経営者側か希望するのは大卒者ではなく職業高校や2年制の短期大学で「実学」を学んだ学生たちである。タイでは高卒者と大卒者の間に給与の面で大きな格差が存在するので給与の高い大卒者は敬遠されるのである。

そのため大学はでたものの就職先がないもしくは希望する職種に就けないという「高等教育と労働市場のミスマッチ」が生じた。このミスマッチはいまや全国規模で生じている。彼らをバンコク首都圏の企業が吸収できない以上、地方で雇用を創りだすはかないだろう。

そうした要請は、経済が悪化している2008年以降はいっそう切実になっている。わたしの個人的な考えでは雇用政策のひとつは大卒者の農業従事者をつくることである。というのも環境と共存し、安全な農産物を提供し、安定した農業経営を維持するためにはIT関連知識、経営学や会計学、化学や土壌学の知識が不可欠になっているからである。「大卒者による新しい農業」が将来拡充すればタイの経済と雇用はより安定すると思うがどうであろうか。

グローバル化と経済の自由化はタイ社会に著しい影響を与えた。クローバル化は確かに経済ブームをもたらしたが同時に通貨危機の原因にもなった。通貨危機のあとも2002年の鳥インフルエンザ、2004年末のスマトラ沖大地震と津波といった外的ショックが続く。

こうした事件は現代世界が不確実性に満ちていることをいやが上にもひとびとに認識させる契機となった。一方、自由化の方は管理と競争の強化を通じてストレスを増加させ、タイ社会から微笑みや「タイらしさ」を奪いつつある。それではタイはこうした状況にどう対応しようとしているのか。

回答のひとつが「足るを知る経済」(セータギット・ポーピアン)の推進である。「足るを知る経済」は日本では充足経済と訳されることが多い。しかしポーピアンは仏教が教える「少欲知足」からきた概念である。そのニュアンスを生かすために、ここでは「足るを知る経済」と訳した。「足るを知る経済」の発想は1997年2月4日、恒例である誕生日前日の国王の講話に端を発する。

通貨危機が勃発したこの年、国王は次のように語った。なお、話にでてくる虎とは世界銀行が「東アジアの奇跡」の中で、タイを韓国、台湾、香港、シンガポールに続く「第五の虎」と呼んだことを踏まえたものである。

「近年、多数のプロジェクトが実施され、じつに多くの工場が建設された。タイは小さな虎にとどまらず、大きな虎になることを考えてきた。ひとびとは虎になることに狂奔してきた。しかし虎になることは重要ではない。重要なことは足るを知る経済だ。足るを知る経済とは自分たちの足で支える経済のことである。100%を目指す必要はない。今の経済の半分、いや4分の1を足るを知る経済に変えるだけでも十分である」

— posted by チャッピー at 06:01 pm  

 

東アジア地域の経済発展の特徴

東部臨海工業地帯開発計画の再開が閣議で決定され、土地造成の工事が始まったのは1987年2月のことである。そして翌年成立したチャートチャーイ政権は、従来予定されていた一連の石油化学プロジェクトの投資奨励をいっせいに認可した。その結果1989年までにはエチレンやプロピレンのプラント、プラスチック製品や合繊製品の素材となる塩化ビニール樹脂・ポリエチレンなど計14の投資事業が発足した。

さらに同じ時期には石油化学と並んで自動車エンジン国産化計画(サイアムセメント、トヨタ自動車グループなど)、鉄鋼一貫プラントの建設計画(サハウィリヤー・グループ)、衛星放送を含む情報通信事業(CPグループ)など、NIES型工業化政策の指標は工業製品輸出の高度化、重化学工業化、金融自由化の3点である。タイは1990年に「IMF八条国」の仲間入りを宣言し、為替・金融に対する政府規制の緩和にも乗りだした。

「IMF八条国」とは国際通貨基金(IMF)協定の八条を受け入れ、外国為替に対して政府が制限的措置を取らないことを約束した国を意味する。これは途上国が国際金融の面で先進国と同等の発言権をもつための必要条件であった「日本は」(1964年に仲間入りを宣言)。したがって、さきの指標に照らし合わせるならば、現在のタイは、明らかにNIES型経済に向かっているといえよう。

もっとも、農水産畜産物とその加工品の輸出は近年そのシェアを低下させっっあるとはいえ、金額の方は依然伸び続けている。また、就業人口に占める農業人口の比率も韓国・台湾と比べると依然高い。これらの点を加味するならば、タイ経済の現状はNAICにNIESを組み合わせた体制といった方がより正確なのかもしれない。

タイ経済のNIES化現象が国外の要因、つまり円高や日本をふくむ東アジア地域の国際競争力の変化によって主導されてきたことは否定できない。同じくタイからの工業製品輸出の急増や重化学工業化の開始がアジアNIES企業や欧米・日本の多国籍企業の進出を受けて実現したこともこれまた否定できない事実である。

半導体、カラーテレビ、コンピュータ部品の輸出の大半、玩具、クリスマスツリー部品、箸などの雑貨類の輸出、繊維、衣類の輸出の一部などは明らかに外国企業、とりわけ1987年以降タイに進出した外国企業が担っている。同様に石油化学プロジェクトの場合もイギリスのICI社、アメリカのデュポン社やダウケミカル社、ベルギーのソルペイ社、日本の住友化学など多国籍企業の進出に負うところが大きかった。自動車エンジン国産化プロジェクト(日本)、鉄鋼プロジェクト(日本)、情報通信事業(アメリカ、イギリス、日本)も、似たような状況である。

しかしだからといって、タイ経済のNIES化を押しなべて外国資本や多国籍企業の進出に結びつける議論には私は反対である。こうした議論はしばしばタイを「従属的経済」とか「多国籍企業の国際的下請け工場」と位置づけるが、半面、次のような重要な事実を視野にいれていないからである。

例えば工業製品輸出のうちアグロインダストリー関連。繊維・衣類、宝石、運動靴、プラスチック製品、冷凍エビのCPグループ、ツナ缶詰のユニコード、タイユニオン、繊維のサハユニオノ、スッグリー、運動靴のサハ、サハユニオン、プリント基盤のチソテックなどがその事例である。

他方、重化学工業プロジェクトの場合には、タイ政府が外国資本の出資比率を49%に抑制していた。換言すれば、残り51%を出資する現地資本がいなければプロジェクトはそもそも成立しないのである。しかも一連のプロジェクトの現地パートナーを務めているのは大半が既存のタイ系財閥であり、多国籍企業が恣意的に支配できる存在ではなかった。

こうした事実を無視して外国企業によるタイ経済の支配を強調してもそれは実態の正しい把握にはつながらない。むしろ注目すべきは1980年代後半から始まるタイ系財閥の事業再編と経営改革の進展であろう。つまり国際環境の激変と政府の政策転換に機敏に対応する彼らの存在をタイ経済のNIES化を支えてきた担い手として評価しなおす視点が必要なのである。

私がいいたかったポイントはタイ経済のNIES化現象を外的要因や多国籍企業の進出に安易に還元するのではなく、タイ系財閥自身の自己変革やイノベーションに求めようとした点にある。同じ視角はサリット体制を「開発独裁論」や「対米従属論」に還元するのではなくサリット自身の開発概念に即してとらえ直そうとした視角と方法にもつうじていることを付言しておきたい。

さて、1980年代末以降の経済変化を特徴づけているもうひとつの側面はNIES化現象にともなって生じた、タイ経済のバブル化とサービス産業の進展であった。より具体的にいえば一般市民を巻き込んだ株式ブーム、ゴルフ場やリゾート開発に代表される土地投機、百貨店・スーパーの相次ぐ開店、マクドナルドやS&Pグループに示される外食産業の著しい発展、ケーブルテレビ、ファクシミリ、衛星放送に代表される情報通信産業の本格的な始動がそれであった。

渡辺利夫氏はかつて東アジア地域の経済発展の特徴を「圧縮された工業化」と名づけた。つまり技術水準の異なる産業が同じ時期に生産を開始し、しかも個々の産業が先進国の経験よりもはるかに短期間にキャッチアップしていく工業化パターンをそう表現したのである。

— posted by チャッピー at 05:48 pm