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東方的な主観的国際主義とは

アブドルマリクの論法は第三世界の左翼的政治運動をマルクス主義理論の発展への貢献としてとらえるところに特徴がある。「東方の参加なしにはこれ以上つづけてやってゆけなくなった時代」が到来しており、それは「困難な歴史の時代」であるが、確実なことは「アジアが先導するという現実である」という。

すなわち東風は西風を圧する。東方が歴史のイニシアティヴをひきつぎはじめる時機は到来したのである。すなわちひきつぎそのものが一つの弁証法的過程であって、危機にみまわれ後退したが決して頻廃などはしていない西欧との弁証法的相互作用によってこの過程は展開してゆくのである。繰り返していうが東方はひきつぎ(リレー)をしたのであって、西方を代行しているのではない。ここでわれわれは根源的な核心をとらえることができる。

民族運動こそ原動力であって覇権帝国主義と革命の時代における社会の弁証法はこの原動力の枠組の中で展開されているということである。アブドルマリクもまた、中国の文化大革命とベトナムの対米闘争とキューバ革命を人民闘争思想の源泉としている。

文化大革命の理論的な貢献については「広大な中国の民族的・特殊的な枠の中から出発して民族解放闘争と社会主義の合流の道を見出すための古典的マルクス主義テーゼの変形にほかならない」と述べている。ベトナム戦争についての彼の昂揚した気分は次のような記述から伝わってくる。

西欧のどこの国のプロレタリアートも革命に成功しないでいるとき、10年前まともな工業力もなく、地政学的にも条件の不利なベトナムのような国の民衆が尋常ならざる能動精神を顕示して今日では史上最大の強国アメリカの軍事力の4分の3を泥沼におとしこむような行動を生み出すとは誰が想像できたであろう。

しかし常に理論への貢献を言及することを忘れない。ベトナムの成功はそのアジア的性格によるのではなくてマルクス主義をヴェトナムの状況に適応したからであることを間違えないようにしよう。指導者が人民大衆、農民、労働者そのほかの人びとをかれらのもとに結集させ、未来の革命の模範を三大陸に与えた。

アブドルマリハクが巧みなのは発展途上国の民族主義運動の貢献を賞揚するとともに、それがまさに西欧の共産主義者に欠けている部分であると示唆するところである。西欧の共産主義の中の「数おおくの(国際主義者たち)が焦点のはずれた態度決定によって中国・ソ連対立のみぞをさらに深めているとき、ベトナムの主導のもとに高まりつつある社会主義勢力はその戦闘的な結束を具体的にかためるために努力をつくしている」。

アブドルマリクは、三大陸の勃興の理論的貢献は、社会主義運動の新しい潮流を示すことで「東方的な主観的国際主義」を提示したことだと意味づける。

マルクス主義者の次なる課題はこの「主観的国際主義」すなわち三大陸の闘争の中で「たくわえられつつある現実と理論の面にわたる貢献」から多くを汲みとり、理論的考察を進め「過去・現在・可能性をはらんだ未来の科学的社会主義の大全のなかに統合する」ことによって「客観的国際主義」を成立させるところにあるという。

アブドルマリクは1970年に出版された論文「帝国主義の社会学のために」では「三大陸の勃興」によって活発になった「覇権帝国主義の世界と民族運動の世界の弁証法の核心のなかで作動している力の関係」を分析することで「紀元2000年及びそれ以後の世界の力の枠組についても1つの展望を試みること」を目論む。

彼の状況認識は以下のようなものである。1949年中国における革命の勝利は全世界史の転換点となり、よみがえった革命的な東方(従属国の世界)は世界政治における決定過程のセンターそのものになってしまった。

1949年から1970年にいたるほぼ一世代、さまざまな革命と反革命が相ついで全てはゆれうごいている。今は1つの限界に到達してある一点に立って世界の新しい力の均衡について考えることのできる可能性、つまり20世紀後半における力関係を規定する可能性があらわれでてきた。

アブドルマリクにとって1970年現在、世界は「もろもろの矛盾の最高の水準、もろもろの対立の最高の局面に生きて」いる。その中から「進歩と社会主義のポジティヴな諸勢力は世界的な社会主義の戦線の内部にあたらしい形態の同盟をつくりだそうと追究をはじめ、そのさけられない決定的な瞬間から大きく伸張している」と謳いあげる。

その決定的な証左はさまざまな発展途上国における「厳密な意味での独立をめざす民族運動の局面から急進的な民族運動の局面への移行」であるという。

このような現状認識からアブドルマリクはその後の世界史を展望してみせる。急進化した民族主義運動は「内外の両面において基本的問題に解決を見出そうとしている。そこから社会主義の方向をめざす民族運動と社会革命の合流が生み出される」という。これはすなわち「人民勢力」が主導権を奪取するべく上昇してきていることを示している。彼は階級闘争が最終段階に到達することを予想する。

— posted by チャッピー at 04:49 pm  

 

ビルマ人の対日観

日本軍のなかにはタキン党員に同情する勢力も存在したが基本的には彼らを若く過激な民族主義者と認識し、そのため非タキン党系で反英活動のために1940年以降投獄されていた年長のベテラン政治家バモオ(1893年~1977年)を利用しようと考え、彼を軍政の枠内に設置した中央行政府の長官に登用した(1942年8月)。

当時49歳のバモオはビルマが英領インド帝国から分離され直轄植民地になった1937年4月から1939年2月までビルマ人として初の首相を務めた人物である。議会内でウー・ソオとの権力闘争に敗れたあとタキン党と組んで反英大衆闘争を指導し、そのため当局によって投獄されていた(1940年)。そうした反英の経歴が日本の東條英機首相に気に入られ、日本占領期においてビルマ政治の表舞台に復帰することになった。

バモオは博士号を持つ教養人で英語もうまく、実際の行政においてはアウンサンやウー・ヌ(1907年~1995年)らタキン党員らも重用するなど、それなりのバランス感覚を有した。しかし立ち居振舞いに独裁者的な様相が目立ち、民衆の支持は強くなかった。また現地の日本軍の一部からも嫌われた。

日本は東南アジアに侵攻した比較的初期からフィリピンとビルマには将来の早い段階で「独立」を与えることを約束していた。フィリピンの場合すでに1935年、米国によって独立が約束され、その準備政府(コモンウェルス政府)が機能していたなかを侵攻したのでフィリピン人の不満を招かないためには「独立」を認めないわけにはいかなかった。

ビルマについては南機関による工作活動の経緯があり、また何よりもタキン党などの反英独立運動の勢力が強かったため、ナショナリズムを無理やり抑えこむことより「独立」を認めて日本に協力させた方が得策であるとみなした。

もっとも、ここでいう「独立」はあくまでもカギカッコをつけた独立であり、アウンサンたちBIAが求めた主権独立国家ではなく日本の指導下にある大東亜共栄圏内の制限された主権国家を意味した。すなわち必要とあれば日本が内政に介入できる余地を保障した「独立」に過ぎなかった。

1943年8月1日ビルマはバモオを国家元首兼首相に据えて「独立」し、枢軸国側10ヵ国から国家承認を受け、対米英宣戦布告まで行なう(アウンサンはこの時、国防大臣に就任)。しかし、その「独立」の実態は深刻な問題を伴うものであった。

「独立」政府は日本軍が戦争終了まで引き続き国内にとどまり行動の自由を保障されるという秘密協定を結ばされ、その結果、バモオ政府は国内の日本軍に対して何の権限も有さない立場に置かれた。1944年2月にバモオが反バモオ派の日本軍関係者によって暗殺されそうになった時も、その容疑者を逮捕したり裁判にかけたりすることは許されなかった。

また「独立」を境にビルマ防衛軍(BDA)からビルマ国民軍(BNA)に改編されたアウンサン率いるビルマ人の軍隊(ビルマ国軍)も相変わらず日本軍(ビルマ方面軍)から軍事顧問を多数送りこまれ監視を受ける立場に置かれた。日本占領期においては人々の生活環境も悪化した。

1942年の雨季明け(10月)から早くも開始された連合軍による反撃のための空襲は人々の命を脅威にさらしたばかりでなく、国内流通インフラを破壊したため悪性インフレを進行させ、一方で反日思想を取り締まる憲兵隊によってなされた拷問や一部将兵によってなされたピンク(頬打ち)や婦女暴行、農村における家畜の徴発も彼らを苦しめた。

険しい山の中をタイとビルマをつなげる泰緬鉄道建設工事や国内各地におげる強制を伴った労働力動員も大変に評判が悪かった。独立後のビルマの歴史教科書(国定)や政府公認の歴史書にはこれらの事柄が忘れてはならない事実として記述されている。

このほか裸足で入るべき寺院やパゴダ(仏塔)の境内に軍靴のままあがったり、人前で裸を見せることを極端に嫌今ビルマ人の民族性を考慮しないで平気で彼らの前で全裸になり水浴びをしたことも多くのビルマ人の対日観を悪化させた(この話は今でもビルマのお年寄りからよく聞く)。ちなみにビルマにも多くの慰安婦が連れてこられ、アウンサン率いるビルマ国軍も日本軍をまねて同様の施設を国内に開設したという記録が残されている。

— posted by チャッピー at 04:27 pm  

 

精雲信仰の伝統

5月クムボイ村から一度だけカカボラジ山群を遠望した。白く硬い光をたたえた鋭い弧のつらなりが幻のごとく浮かんでいた。あそこにはどんな風が吹いているのだろうか。できることならこの足でどこまでも歩いてゆきたい。しかし政治情勢がそれを許さなかった。

プタオ地方もクラン・クー地方同様ビルマ政府の支配下にある。1970年頃まではカチン独立軍第7大隊本部はプタオ盆地のまわりを転々としていたがビルマ軍の攻勢により1971年頃チャイ川以南へ、1975年頃からはマリ・クラン・ワロン地方へと移ることを強いられた。

それにつれてカチン独立機構が村人を組織できている解放区も北の方から失われていった。ビルマ軍が地域ごとに村人を自軍支配下の土地に強制移住させる作戦をとり多くの村が消滅させられてしまったからだ。

このようにカチン独立軍第七大隊が後退していった背景にはプタオ、クラン・クー、ソマイ川上流の各地におけるカチン独立機構・軍とラワンやヌンの人びととの対立がある。そこには複雑な事情もからみ合っているのだが、かいつまんで説明すると次のようになる。

プタオ地方にはシャン人(タイ・カムティ人とカチン人が住んでいる。人口がより多いカチン人の側はジンポー、ラワン、リスーといった三つの言語集団に分けられる。ただしラワンの人びととリスーの人びとは自分かちがカチン民族の一員だとは深く思っておらず、ふつうカチンといえばジンポーを指すと考える人が多い。

それはカチン民族のなかのジンポー、マルー、ラシー、アヅイー、ヌン、ラワン、リスーという7つの言語集団の間に古くから織りなされてきた共通の氏族の網の目がソフワンとリスーに関しては充分およんでいないことから来ているようだ。(ヌンの人びとについても同じことが多分に言える。)

そもそも7つの言語集団はそれぞれ独自の言語や親族同士の呼び方、子供の名づけ方民族衣装などを持っている。まじり合っている地方もあるが、もともとは住む地域も分かれていたという。しかし各地域は山や谷でへだてられながらも隣り合っているので村人どうしの交流も自ずと生まれてくる。

焼畑農業に支えられた暮らしぶりも同じようなものだし、共通の氏族の網の目を通じて男と女が結ばれ、子供や孫ができて親戚関係がひろがってゆく。精雲信仰の伝統に根ざす神話や儀礼や慣習など文化面でも似通ったところが少なくない。こうして長い年月をへて同じひとつの民族を成すという感情、帰属意識がつちかわれてきたのである。

ただ問題なのは7つの集団のうち前の四者はまじり合って住んだり、結婚し合う関係が積み重なって氏族の絆による結びつきも密なものになっているが、後の三者はそれほどでもなくカチン人としての一体感、帰属意識が薄い点である。

ラワンとリスーにはほかの集団と共通の氏族もあるが、共通かどうか不明の氏族やまったく独自のものらしい氏族もある。だからほかの集団との間では氏族の絆も弱く、自分たちはそれぞれ別の民族だという意識が芽ばえがちなのは避けられない。この点が対立問題の根っこの部分に横たわっているのだ。

1961年に発足したカチン独立機構の指導者や中核となったメンバー、カチッ独立軍のゲリラ将兵にはジンポーが比較的多く、ほかにマルーとラシーとアヅイーがそれぞれ同じくらいいた。その理由としては7つの言語集団中、ジンポーの人口が最も多いこと、ジンポー、マルー、ラシー、アヅイーが混住しているシャン州北部で組織が生まれ、やはり同じような状態のカチン州南東部へまず活動をひろめていったことがあげられる。

そのせいか組織の英語名ではカチンという言葉が使われたがカチン語(共通語であるジンポー語を指す)名ではフソンポー・ムンダン・シャンロット・プン」(ジンポー国独立機構)とされ、カチンのかわりにジンポーという言葉が用いられたのだった。

カチン独立軍の部隊が初めて北部山岳地帯にやって来たのは1963年である。村人の間に支持をひろげて志願兵をつのったときもそれにまず応じたのはジンポーが多く、次いでマルーやラシーの人たちが加わった。プーターオ盆地に入っだのは1964年になってからで、このときがプタオ地方、クラン川源流地方、ソマイ川上流地方にだけ住むラワンやヌンの村人とカチン独立軍の初めての本格的な接触だった。

「プタオ地方で真っ先にゲリラを支持したのはジンポーの村人で多くの若者が志願しました。リスーからの参加者は少なかっだけれど、いい関係ができそうでした。リスーの人たちはカチン州の南東部からシャン州にも住んでいてカチン独立軍のことはすでに知っていましたからね。問題が起きたのはラワンの人びととの間でした。もともと、ラワンとジンポー、ラワンとリスーの関係は、村の土地の境をめぐる争いや有力者どうしの反目などによってよくはなかったんです。

しかもカチン民族の一員という気持ちが薄いラワンの人たちはカチン民族独立軍はジンポー中心の組織であり、現にカチン語でジンポー国独立軍と名乗っている。もし自分たちが参加してもジンポーの下に置かれるだけだろうと考えたわけです」ウラーノー大尉は重い口を開いて語った。

カチン独立軍に対するラワンの人びとの心理が微妙に揺れ動くなか問題に火をつけたのは相互不信にもとづくスパイ処刑事件だった。ビルマ政府に意を通じたり政府にそそのかされたりした者がスパイを働いた場合とゲリラ側の誤解による場合の両方あったがカチン独立軍の手でラワン住民が処刑される事件が相次いだ。

それを機にラワンの人びとはビルマ政府側につき、反ゲリラの姿勢をかためていった。自らの勢力がおよぶ地域において否応なくひとつの政治権力・制度として機能してしまう反政府ゲリラ組織の過剰反応とでもいうべき処刑策がボタンのかけちがいとなって重大な問題を招いたともいえる。

— posted by チャッピー at 04:16 pm  

 

タイ経済の「構造調整期」

1980年に誕生したフレーム政権は、この長期不況を受けて1981年に国際通貨基金(IMF)に対して緊急救済融資を1982年3月と1983年4月には世界銀行に対して合計3億2550万ドルの借款をそれぞれ要請する。一方、国際機関はタイに対して融資と引き換えに政策合意(コンディショナリティ)と呼ばれる経済政策の見直しを要求した。

具体的には為替の調整(1981年と1984年のパーツの切り下げ)、公営バスなどへの政府補助金給付の廃止、そして1980年当時七三社を数えた国営企業の見直しなどがそれである。

同時にフレーム政権はその後のタイのマクロ経済の運営に大きな影響を及ぼす新しい制度や枠組みを次々と導入する。例えば経済閣僚会議を新設し、公的対外債務の使途目的や金額の上限を検討する国家債務政策委員会を設置した。

あるいは政府と民間諸団体の間で経済問題を定期的に協議する「経済問題解決のための官民合同連絡調整委員会」を発足させた。このような経済構造の再編を目的とする世界銀行のプログラムは通常「構造調整融資」(SALS)と呼ばれる。1980年代前半のタイ経済を「構造調整期」と呼ぶのはそのためである。(末廣・東編2000年)

タイ経済を一変させる契機となったのはプラザ合意である。1985一年に先進5カ国の財務相・中銀総裁(G5)がニューヨークのプラザホテルに集まり、主要国の為替の国際調整を実施したのがプラザ合意である。

このあと日本の円は1985年の1ドル238円から翌1986年には218円へと急速な切り上げが進み、同時に韓国、台湾などのアジアNIES(新興工業経済群)の間でもドルに対する自国通貨の切り上げが進行した。この為替の調整は2つの異なる海外直接投資の動きに発展する。ひとつは日本企業の先進国向け投資を促した。

つまり日本から輸出していた工業品を消費地(アメリカなど)での現地生産に切り替えたのである。もうひとつは日本やアジアNIES企業による東南アジア向け投資の急増を引き起こした。こちらはアメリカ市場への迂回輸出が目的であった。そして後者の直接投資の恩恵を最も受けた国がほかならぬタイであった。

タイ向け直接投資の動向を投資委員会のデータをもとに整理したものである。プラザ合意から3年後の1988年を起点に直接投資が急増していることが分かるであろう。この第一次段階の投資ラッシュを牽引したのは日本企業であった。1990年に入るとアジアNIES企業がこれに加わる。

そして海外からの直接投資のあとを追う形でタイ人企業の投資も急増していった。それでは直接投資ブームはタイ経済をどのように変えたのか。この点を実質経済成長率と輸出金額(ドル赤字)の変化で確認しておこう。

何より目を惹くのは経済成長率をはるかに上回る輸出の伸びである。実際1985年から1995年の間に輸出は71億ドルから557億ドルヘと7倍以上に増加し、年平均伸び率は20%を超えたほどである。なお、図には示していないが製造業は1988年から1995年の間に年平均13%とGDP年平均成長率の10%よりも高い成長を示し、逆に物価上昇率は五%と相対的に低い水準にとどまった。

要約すると1988年から始まる経済ブームを引き起こしたのはフレーム政権が実施した構造調整政策の結果というよりも日本・アジアNIESのタイヘの企業進出ラッシュであり、彼らが推進した工業製品(繊維、家電、機械機器類)の迂回輸出の増加のほうであった。

輸出先はアメリカ市場である。この点はアジアNIESのキャッチアップ型工業化の発展パターンと変わらない。(末廣2000年)より重要な点はこの時期のタイが経済構造、産業構造、輸出構造、労働市場のすべての面で大きな変化を経験したという事実である。そこで経済ブームを間にはさむ1985年と1995年の間の変化をみてみよう。

GDPに占める一次産業(農林水産業と鉱業)の比率はこの11年間に28%から11%に低下し、製造業の比率は22%から28%に上昇した。次に製造業に占める軽工業と重工業の比率をみると1985年の60対40から1995年には45対55に逆転した。(重工業が軽工業を抜くのは1994年)

これ以後タイは自動車、鉄鋼、石油化学に代表される重化学工業を軸に発展の道を歩んでいく。輸出品の構成をみても同じ期間に農林水産物の比率は42%から28%へと劇的に低下し、逆に工業製品のそれは34%から65%へ大きく上昇した。

タイからの輸出品の顔ともいえるコメは1985年当時はまだ輸出全体の12%を占めていた。その比率は1995年には3%強にすぎない。労働市場をみても農林水産業の従事者が労働人口に占める比率は69%から47%へと低下し、生産労働者の比率は11%から21%へと上昇している。

以上の数字からも分かるようにタイは経済ブームのなかで農業国から工業国へと完全に離陸した。ところで世界銀行は1人当たりGDPが3000ドルを超えた国を「上位中所得国」と定義している。この定義にしたがえばタイは1996年(2965ドル)に「中進国」の仲間入りをほぼ果たしたことになる。

こうした急速な経済構造の変化はアジアNIESを別にすると他の発展途上国には見ることができない。アジア諸国の急速な工業発展を「東アジアの奇跡」と名づけた世界銀行は同行の報告書の中でタイをアジアNIES4ヵ国・地域(韓国、台湾、香港、シンガポール)に続く「第五の虎」と呼んだが、それには十分な根拠があったのである。(世界銀行1993年)

— posted by チャッピー at 03:59 pm  

 

ピブーン政権と正反対の政策

サリット首相の工業化政策はその骨子は一言でいえば外国企業をふくれ民間企業主導の「輸入代替型工業化」であった。つまり従来外国から輸入していた工業製品を国内で生産しようとしたのである。

そしてこれを実現するために1.国営・公企業の活動の抑制、2.国内民間企業の投資奨励、3.外国企業の積極的誘致、4.国内産業保護のための輸入関税の大幅引上げなどを掲げた。以上の方針にもとづいてサリット政権は一連の制度や法の整備を矢継ぎ早に実施していく。1959年には経済開発計画を立案する国家経済開発庁(NEDB)と国内外の投資奨励を統轄する投資委員会(BOI)をそれぞれ設置した。

そして翌1960年には「新産業投資奨励法」を制定する。これと並行して外国企業に対してはピブーン政権と正反対の政策をとった。具体的には1.外国人の出資を資本金の49%以下に規制するピブーン政権の方針の撤廃(したがって100%出資も可能)、2.外国人による土地所有規制の大幅な緩和(工場用地など)、3.配当・利益などの海外送金の自由化、4.民間企業における労働組合の結成の禁止など外資の積極的な誘致に努めた。

こうした一連の措置を受けて1960年代初めから日本を中心とする外国企業が本格的なタイ向け進出を開始するのである。さて、サリットの経済開発政策については次の一点をとくに指摘しておきたい。

第1は欧米留学組の経済テクノクラート(サリットのいう専門家)が経済計画や投資政策の策定に重要な役割を果たした点である。さきにしたがう形で工業化政策を構想したと述べた。その点を受けて同政権の経済政策を世銀勧告の単なる受け売りとみなす人は多い。

しかし世銀が調査を実施する際にタイ側が受けるとして「タイ・世銀連絡調整委員会」を設置し、世銀のスタッフと毎週、検討会議を開いていた事実はほとんど知られていない。

なお、この委員会の議長を務めていた人物は当時中央銀行総裁の地位にあったデート・サユダ。彼はサリットの革命後、請われて「革命団」の経済顧問団議長となり、さらに国家経済開発庁が設立されるとその初代長官に就任した。以後21年間タイの経済開発計画は彼の指揮のもとで作成される。

デート(1898年~1975年)はタイでは屈指の名門王族の出身であるが、1910年代にドイツのボン大学で経済学を修め、帰国後は商務省や中央銀行の要職を歴任した生粋の経済官僚だった。第2に当時の政府経済関連機関には外国人の経済顧問がいて、さきに述べたタイ人テクノクラートと緊密な関係を保っていた。

例えば大蔵省や国家経済開発庁にいたジョン・ロフタスやグレン・パーカー、投資委員会のベイツェルなどは財政改革や工業政策の推進面で重要な役割を果たした。大切なことは外国人の提言や議論を受け止めるだけの人材がタイ国内にはすでに存在し、あるいはフルブライト奨学金(1951年以降)などを使ってアメリカに留学した若い世代が帰国してこれらの諸機関の実務を支え始めたことである。

サリット政権以後の経済開発政策は決してアメリカの「押し売り」でもなければ世銀の「受け売り」でもなかった。タイにはこれを担う層が生まれつつあったし、サリダらの役割を重視したからである。タイでも日本でもサリット首相には「独裁者」のイメージがどうしてもつきまとう。

たしかに彼は首相の地位をはじめ陸軍司令官、警察局長官、国家開発省大臣など、あらゆる権力を個人のもとに集中し、自分に刃向かうものは容赦なく弾圧した。「革命」実施直後、40人をこえる知識人、学生、ジャーナリストたちを共産主義者の容疑で逮捕したりピブーン政権がいったん認めた労働組合に対し解散を命じたのはその一例である。

サリットの独裁体制をもっともよく伝えるのは彼が制定した「1959年暫定憲法」のなかの第17条、つまり「国家専王制に危害を与えるとみなしえる場合にはいついかなる場合であれ首相は断固とした措置をとる権限を有する」という首相非常大権の規程であろう。

これはサリット首相個人に対する畏敬とともに恐怖を表わす代名詞になった。事実彼はこの非常大権に依拠して放火犯人、麻薬密売者、共産主義容疑者などの多数の逮捕とその処刑を命じている。しかしだからといってサリット体制を恐怖政治や独裁体制のみで語るのは間違いであろう。

すでにみたように彼の一連の政策はこんにちのタイの政治・経済・社会のほぼすべての枠組みの出発点になったと私は思うからである。彼は陸軍主導の権力体制を確立した。ところが10年後にこれに反対し。民主化運動を推進する学生層をつくりだしたのも彼だった。地方開発に国王や僧侶がリーダーシップを発揮する原型を築いたのもやはり彼である。

— posted by チャッピー at 03:23 pm