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西スラウェシ州設立宣言

日本のマスコミでも報道された1999年10月の「スラウェシ独立」騒動は同月に開催されていた国民協議会に対して闘争民主党などが大衆を動員してプレッシャーをかけたことやジャカルタの一部の学生グループが勝手にインドネシアの学生全体を代表して声明を発出したことへの抗議が発端であった。

その後10月19日に国民協議会によってハビビ大統領の責務総括演説内容が否決されたことを受け、学生による街頭行動は一気に拡大した。学生たちは南スラウェシの全市民に対し国民協議会による決定をすべて拒否し「スラウェシ独立」を宣言するよう訴えた。

学生たちはメガワティ闘争民主党党首が大統領候補になることに強く反対し、闘争民主党のマカッサル市支部や同党に関係があるとみられるプロテスタント系学生団体の事務所などへ投石や破壊行為を行なった。

学生デモは日ごとに拡大し、学生はマカッサル港、州議会議事堂、ハサヌディン国際空港を占拠したほか、国営ラジオ(RRI)や国営テレビ(TVRI)のマカッサル放送局に入り込んで自分たちの声明を無理やり放送させたりした。南スラウェシ州議会の一部の議員は学生たちと一緒に路上行動に加わった。

10月25日には州知事庁舎に学生たちが押しかけ、州知事の目の前で国旗(紅白旗)を引きずり下ろし、独立スラウェシの旗を掲揚した。学生たちの有無を言わさぬ強圧的な態度に州知事が激怒したことは言うまでもない。もっとも独立スラウェシの旗は大学によって異なっており、また彼らが歌った東インドネシア国の「国歌」は現国歌「インドネシア・ラヤ」の替え歌であった。

一部の学生は東インドネシア国の実現とその初代大統領としてハビビを就任させることさえも呼びかけた。ところで、この連日の学生デモでマカッサル市内の交通機関は麻痺し、多くの商店が店を閉めた。市民の足であるペテペテと呼ばれる乗合は運行できず、空港や港の機能にも支障が出た。

学生だちと一緒にデモを行なった一般市民は地元サッカーチームPSM(このPSMのオーナーは「(レフォルマシ)の名の陰で」で述べたヌルディン・ハリッドとその親族)のサポーターぐらいで、多くの市民は学生デモが一刻も早く終わることを望んでいた。市内最大の学生数を誇る国立ハサヌディン大学の学生がデモに参加していなかったこともあり、市民の学生に対する反応は冷ややかであった。

南スラウェシ州の州都マカッサルでの学生たちによる「スラウェシ独立」要求が下火になりはじめた1999年11月10日、数百人が集ってポルマス県ティナンブン郡の4万人犠牲者英雄墓地公園で「西スラウェシ州設立宣言」が行なわれた。

西スラウェシ州として想定されているのは南スラウェシ州西北部にあるマムジュ、マジエネ、ポルマスの三県で、この地域はオランダの植民地統治下では1つの行政大領域であった。種族的にはマンダール語を話すマンダール族住民が多い地域であり、1950年~1960年代からまとまって1つの州として独立する運動が起こっていた。

多くの場合、オランダ時代の行政大領域はそのまま州となっており、なかには行政小領域をいくつか集めて州を作ったケースもあるから行政大領域を母体とする西スラウェシ州が設立できる理由は十分にあるというのが支持者の主張である。バスリ・ハサヌディン社会福祉担当調整大臣(当時)の実弟が運動の中心メンバーの1人である。

西スラウェシ州設立行動委員会はマムジュ、マジェネ、ポルマスの各県議会において趣旨説明を行ない議員からの賛同を得たとしている。ジャカルタに出向いて国会の場でも趣旨説明をすでに行なっている。一方、同委員会は地元NGOや学生グループと協力し、村落レベルへの説明を行なって趣旨を浸透させていくとしている。また西スラウェシ州の設立の是非を問う住民投票の実施も構想されている。

— posted by チャッピー at 05:34 pm  

 

ベトナム共産党が権力を維持する方策

共産党指導部は中央委員が250名、政治局員が15名前後という極めて少人数で最高決定を行なうシステムになっている。そのうちでも勢力範囲は二極化している。国際的な経済も理解して経済運営を中心とする南部出身の「改革派」と軍と公安警察を中心とする社会主義体制を擁護することを主眼とする「保守派」である。

さらに出身地域のバランスも変わった。ベトナムは南北に1700キロと細長い領土を持つ国でそれぞれの地域によって歴史的な発展速度が違い地域差が大きい。その点を考慮して党書記長・国家主席・首相という党内序列第1位から第3位の役職には北部・中部・南部と3つの出身地域のバランスを考慮して人材が配置されてきた。いわば「トロイカ方式」が成立していたのである。

だが第10回党大会ではこのような地域バランスは考慮されなくなった。出身地より保守派・改革派という政治的な立場と個人的な能力の方を重視する現われである。例えば同党大会とその1年後の総選挙の結果に基づいて構成された国会での議決を見ると党内順位第1位には先に見たノン・ドウック・マイン書記長、第2位には国家主席ではなくてレーホン・アイン公安相、第3位がグェン・タン・ズン首相、第4位がグェン・ミン・チェット国家主席となっている。

第1位の党書記長と第2位の公安相は北部保守派を代表していて第3位の首相と第4位の国家主席はいずれも南部のホーチミン市で都市経営と経済問題を担当した経歴を持つ南部改革派のリーダーなのである。この布陣の意味は異なった解釈の余地を残している。

一方では北部の保守派の勢力がまだ政治的なリーダーシップを維持していて、経済中心の改革派に国家経営を自由にさせるのをチェックしていると解釈出来る。他方、これは共産党一党支配体制の見せ掛けだけで国家主席と首相という国家機構の中軸を南部の経済畑出身の2人のリーダーが占めていることは実質的に体制維持のためにも経済発展重視で行くしかないことの表現であると解釈する人もいる。

1つだけ確かなことは、国際的な開放政策が進むにつれ国家間の条約や協定が結ばれる頻度が増えるので、対外的には共産党よりも国家機構の存在感の方がより重きをなしているということである。国内的には党書記長の方が国家主席よりも政治的な力はあったとしても国際的には国家主席が元首とみなされ党書記長は元首としては扱われない。

2007年11月に来日したチェット国家主席は歴史上初めて国賓の扱いを日本政府から受け、天皇皇后主催の宮中晩餐会が開催されたが、その折に党内序列第四位であることが、その会で話題となった。国内的には党書記長がナンバーワン、国際的には国家主席が元首としてナンバーワンの扱いを受けるという矛盾を解消するために国家主席と党書記長を兼任させる考えもより一層現実味を帯びることになった。

1996年から2001年まで書記長をしていたレーカ・フューの時代にも国家元首と党書記長を兼任する考えが議論されたことがあった。だが、その考えはフュー書記長の個人的な野望とみなされて1人の人間に権力が集中しすぎて個人独裁を生む危険があるとして排除された。しかし国際社会への参入の仕方が深化するにつれ国内的な視点と国際的な視点で矛盾が生じることを防ぐという観点から兼任の可能性は著しく高まってきた。

次回の第11回党大会が開催される2011年頃には具体的な提案として出される可能性がある。というのも、この国家主席・党書記長兼任論の具体化の論議と関連して萌芽的ではあるが、大統領制導入も一部では検討されているからである。米国を始めとする西側先進国から民主化要求は強まっている。

その民主化要求の目玉として政治改革をして制度的に共産党の一党支配を終焉させるために複数政党制の導入と公平な選挙の実施を求められているのである。もちろんベトナム共産党は徹底的な制度改革には反対で、運営面で徐々に自由を国民に広げていき政治参加を拡大することで不満を吸収する方策を盛んに試みている。

しかし将来複数政党制を導入せざるを得なくなった時でも共産党が権力を維持する方策の1つとして大統領制が構想されているのである。

— posted by チャッピー at 05:28 pm  

 

ソフト産業成功の要因

インド人移民はさまざまな理由で国を出た。初めは英国人に駆り出される形で隷属的な労働者として外国に移住した。そして戦後は自由意志で出稼ぎを決めた。さらに1980年代以後は、留学生、研究者あるいは優れた技術者として先進諸国で大きな役割を果たすようになった。

かつて貧しかったインド移民も今日では多くの場合、専門職に就き中産階級以上の生活を享受するようになり、送金と投資を通じ、本国の経済発展に大きく寄与するに至った。

インドの持続的な経済発展にとって印僑の果たす役割は大きいものがあるが、外の世界とのかかわりを積極的に追求し始めたインドにとっては経済以外のさまざまな分野でも世界に広がっている印僑の経験と国際感覚が今後大いに役立つと思われる。インド経済を支えている好調なサービス産業のなかでもとくに成長率の高いのはITのソフト部門である。

年成長率は1990年代において年平均50%を超える成長を遂げており、新世紀に入ってもその勢いは衰えていない。ではなぜインドはITソフトにおいて瞳目すべき急成長を遂げることができたのであろうか。コンピューターの製造・輸入に関する規制を漸進的に解除し、コンピューター文化を促進するような産業を奨励したので、ソフトウェアの開発・輸出が重視されるようになった。

この政策には印僑、特に米国に留学しシリコンバレーで活躍していた若者達の情報が好刺激を与えていた。ITソフト産業の立ち上げには重工業化のような大きな資金を必要としない。割り切っていえば、パソコンに電話線とパラボラアンテナさえあれば直ちに立ち上げることができ輸出さえもできるという点で開発資金の不足していたインドにとってはぴったりの新産業であったのである。

1970年代の後半以来、私は訪印するごとに主として首都圏で学生や社会人に日本についての講演をすることにしてきたが、日本人学生に比べてインド人は概して理屈っぽく論争好きである。国際会議を成功させるために議長が心得るべき要諦は「日本人にしゃべらせ、インド人を黙らせることである」というジョークがあるのは、さもありなんと思ったことがよくある。

インドの旅では路上で果物や日用品を売っている農民や商人から買い物をすることが多いが、小学校をまともに出たかどうかという彼らがさっと引き算をしてお釣りを渡すのに計算を誤ることはない。足し算をしなければ釣りが渡せない欧米「先進国」の商人よりはよほど計数に長けている。

歴史と環境のなかで作られた民族の特性というものはある。私の限られた経験からしてもインド人は一般に数理には強いといえるが、歴史をふり返ればゼロを発見し、アラビア数字の元となる数字や記数法を作り、論理学を発展させ、深遠な仏教哲学を育んできた国であり、その伝統は今やITソフト技術に継承されていると言ってよいのであろう。

小学校で日本人は「九九」を学ぶが、インドでは「19×19」を暗記するという。2桁の「いくいく」は、重複暗記を除いて比較しても1桁の「くく」の四倍強の暗記を必要とする。「詰め込み教育はいけない」「暗記の強制は自主性を損なう」などという当世の日本で流行中の「進歩的」スローガンに同調していたならばインドはITソフトの振興どころか世界に冠たるインド商人も生まれなかったことだろう。

高校用の数学教科書を見せてもらったことがあるが厚みが全然違う。一流高校で用いている数学教科書のレベルはある日本人教授の話では日本の工学部2年に相当するとのことであった。インドの大学の理科系学部を大きく理学系(理論科学)と工学系(応用技術)に分けると日本とは異なり理学系の学生数がはるかに多い。

ハード(物作り)に強い日本とソフト(論理)に強いインドとの相違がここにもはっきりと現れている。1909年にバンガロールで創設された理系専門大学院のIIS(インド科学大学院大学)をはじめ理系の高等技術者を育成する優れた高等教育機関がインドには存在していた。

独立後を見ても1950年代に米国のMIT(マサチューセッツエ科大学)をモデルにしたIIT(インド工科大学)が創設され、全国に6つのキャンパスを有して優秀な学生を集めている。入学試験科目は数学、物理、化学の三科目であるが、定員の何十倍もの学生が応募する競争は激甚で、日本の「入試地獄」などはこれに比べれば「極楽」だと言われるほどである。

1960年代にはIITを補完する大学として経営学専門のIIM(インド経営大学)が作られ、その後全国に技術系の大学やIT専門の職業訓練学校が生まれている。「コンピューター政策」が発表されて以後はそれが加速され、経済自由化後は印僑を含む民間企業が資金を出して私立の技術系大学を設立する動きが拡大している。

インドのシリコンバレーとして有名になったバンガロールだけでも、77の工科大学があり約3万人の学生を毎年送り出している。業界団体の推計では2000年3月でインド企業で働いているソフト技術者は34万人とされるが、これは米国に次ぐ世界第二であり、その後も高給で待遇が良く、海外勤務も可能なこの魅力的な職を目指して優秀なインド人技術者が増え続けている。大学卒の技術者だけでも毎年10万人以上を数えている。

— posted by チャッピー at 05:19 pm  

 

政党と官僚の一体化

人民行動党は1959年の政権獲得直後から弱い政権基盤を補うために官僚の取りこみを始めていた。1959年8月にはトップ官僚に対する政治教育を目的に「政治学習センター」を開設し、受講手当てを支給して政府の政策や計画についての講義を受けることを義務づけ、同党への政治的支持を促した。

一方、住宅開発庁や経済開発庁などの準政府機関の設立と運営には官僚の経験や知識が必要であったため、リー・クアンユーは官僚の役割重視を常に強調した。当初は人民行動党の容共路線に懐疑的であった官僚層が、リー・グループの「右傾化」とともにその政策を評価し始めたのはこの頃からである。

さらに市評議会(中心部シティを統括する市役所のような行政機関)が廃止されて、その行政事務が官僚に委託されたことや準政府機関の運営が利益主義をとったことも官僚を刺激した。人民行動党分裂時には官僚の多くがリー・グループを支持していたといえる。

独立以後は官僚層が人民行動党若手指導者の最大の供給源となり、官僚出身政治家が若手指導者のトップ集団を形成している。その結果、党が行政組織や官僚を完全に掌握し、党組織と同じかそれ以上に活用している。すなわち政府の行政機構は支配政党と完全に一体化しているのである。人民行動党が社会の「ベスト・アンド・ブライテスト」であるのだから、野党は必要ないという考え方に基づき、野党を含めた批判勢力は徹底的に取り締まられた。

すでに述べたように1960年の労働組合法によって組合の活動は制限され、労働組合運動は人民行動党政府の主導下に統一されていたのだが独立後、労働組合は完全にその本来の役割を失わせられた。そういった政策は「労働組合は、国益という大きな枠組みで運動を考えなければならない」(ゴーケンスイ蔵相)という主旨の下でなされたのであるが、これによって野党が労働組合を支持基盤として運動を進めることは不可能になった。

学生の政治運動にも厳しい規制が行なわれた。大学受験には他の必要書類とともに生徒の「適性証明書」が要求されることになった。これは応募者が過去に共産主義運動に関わったことがないことを政府が証明するもので、特に政治学や哲学を専攻しようとする生徒の「適性証明」は厳密になされた。1966年このような政府の大学に対する露骨な介入に反対して座りこみや試験ボイコットを行なった学生に対し、政府は逮捕や追放処分を科し、政府の断固たる態度をみせつけた。

また、この頃から党の幹部が大学の理事に任命されたり、教授陣や学生組織に入ることによって大学への影響力も行使しつつあった。党委員長トー・チンチャイのシンガポール国立大学副学長就任は、大学と政府の関係を如実に物語っている。こうして野党の社会主義戦線は労働組合と学生組織の支持基盤を完全に失った。

野党はその後も人民行動党政府から「合法的に」取り締まられている。「合法的に」というのは政府は反対勢力の動向に合わせ、その動きを封じる法を次から次に制定して合法的に抹殺してしまうからである。1981年のアンソン選挙区補欠選挙で野党・労働者党のジャヤラトナム書記長が人民行動党候補者を破り13年ぶりに国会に人民行動党以外の議員が生まれた。

彼は1984年の総選挙でも再選された。インド系の弁護士である彼は国会で一貫して反人民行動党の姿勢を堅持し、政府追及の論戦は迫力十分で、大きな目と浅黒い皮膚、がっちりとした体型からしてまさに反体制の闘士といった雰囲気であった。

「ジャヤラトナムはたった1人で本当によくやっている。ただ、色々なことを一度に言いすぎるけどね」これはシンガポール国立大学の友人の平均したジャヤ評である。しかし、たった1人でも人民行動党ぱ彼を見逃さなかった。1983年過去の労働者党の党会計報告に虚偽の記載があったとしてジャヤラトナムは人民行動党から告訴された。

告訴された4件のうち3件を棄却した判事マイケル・クーは更迭された。再告訴の末、ジャヤラトナムは有罪判決を受けたが、彼はクーの更迭を取り上げて行政の司法への介入を非難した。すると人民行動党は国会議員の特権に関する法を改定、ジャヤラトナムの非難は「国会議員の特権の乱用」であるとしてジャヤラトナムに罰金と国会からの追放を言い渡したのである。

— posted by チャッピー at 05:13 pm  

 

アラブ首長国連邦の経済

日本が原油を輸入している最大の相手国がアラブ首長国連邦(UAE)である。アラブ首長国連邦とはアラビア半島からペルシャ湾に突起した半島の一部にある7つの首長国で形成する連邦国家である。連邦を構成している代表的な首長国はアブダビとドバイである。2005年7月の推定人口はわずか256万人であるが、そのうち約160万人は外国人であると推定されている。

総人口の約半分は東南アジアの人種である。年齢別構成の推定比率は0~14歳が25.3%、15~64歳が71.1%、65歳以上は3.6%である。1971年の連邦形成以前は英国の支配下にあった。連邦の元首はアブダビ首長である。彼は71年のUAE建国以来、大統領を務めてきたザーイド・ビンスルターン・アールナフヤーン前大統領(兼アブダビ首長)が2004年11月に死去した後を継いで新大統領に就任した。

7つの首長国の代表40名で構成されている連邦評議会が設けられているが、このメンバーは各首長によって任命されてきた。評議会は立法権は持かないが最高意思決定機関である7首長国の最高評議会に意見を進言することができる。ただし民主化の波はアラブ首長国連邦にも押し寄せている。

2005年12月1日にハリーファ大統領は評議会のメンバーの半分の選出に選挙制度を導入することを発表した。これはアラブ首長国連邦にとって初の選挙となる。2004年の実質GDP成長率は5.7%、名目のGDP総額は2003年が798億ドルであった。1人あたりにすると2万2千ドルとなる。

部門別にみたGDP内訳は農業4%、工業58.5%、サービス業37.5%であるが就業人口の構成比は7%、15%、78%となる。産油国であるために石油関連産業が7要産業であるが、UAEの特徴は非石油部門のGDPに占める比率が比較的高いことである。それはドバイをはじめとして産業の多角化を図ってきたからである。

1981年にはドバイ郊外にジュベイリ・フリーゾーンを設置し外国企業を積極的に誘致してきた。外国企業に対して税制面で優遇したり、100%外資の承認などを行ったことが外国企業を引き寄せる要因となり、物流センターとして活況を呈している。2003年4月時点での進出企業数は2250社である。

ジュペイリ・フリーゾーンに続いてシャルジャとアブダビにもフリーゾーンが設けられて成功している。また、ドバイとアブダビは金融センターとしての可能性を求めて2000年に証券市場を開設した。2005年9月には外貨建て証券市場もオープンした。

2002年には「ドバイ国際金融センター」の設立を発表した。このセンターは金融のオフショアセンターを目指すものである。最近では2005年11月に中東初の商品先物取引所となる「ドバイ金・商品取引所」を開設した。扱う商品は金のオプションから始めるが段階を追って銀の先物とオプション、鉄、綿花、海上運賃、船舶燃料など、さらには石油先物も取り扱う予定である。

ドバイ政府が50%、インドの2社が50%出資する。湾岸地域においてこれまではバーレーンが金融センターとしてのポジションを得ていたが今後はドバイに中心が移りそうな気配である。2005年3月から米国との2国間自由貿易協定(FTA)交渉を開始した。

2003年3月米英軍がイラク攻撃を開始しフセイン体制はあっけなく解体した。その後のイラク情勢は2006年春現在依然として治安が回復された状態ではないがアメリカブッシュ政権は次の標的としてイランを注視している。アメリカはイランを「悪の枢軸」と呼び、イランはアメリカを「大悪魔アメリカ」と呼び、イランの町並みの壁のあちこちに「モルグ バル アムリカ(アメリカに死を)」という落書きが書かれている。

2005年8月に新大統領を誕生させたイランは新たな重大な節目の時期を迎えた。大統領選挙が行われハタミ大統領に代わりアフマディネジャド新大統領が選ばれた。イラン国民は穏健改革派から一転して保守強硬派の大統領を選んだ。

決して改革・民主化を望まなかったわけではない。8年間ハタミ政権下で試みた改革運動がむなしかったことを身にしみて感じた結果である。国民の意思を代表させようと直接投票で大統領を選んでも大統領は最高権力者ではないのである。

国会議員の選挙で国民が自分の意見を反映させてくれる候補者に投票しようとしても、その候補者が事前審査にパスしなければ立候補ができないのである。その審査を保守派が牛耳る機関が行う限りイランで改革派が勝利して改革を実行することはできない。イランの歴史的な対外関係、イスラム共和国という政治体制を生んだイラン革命、今世界の注目を集めている核開発疑惑問題までを取り上げよう。

— posted by チャッピー at 04:59 pm