5月クムボイ村から一度だけカカボラジ山群を遠望した。白く硬い光をたたえた鋭い弧のつらなりが幻のごとく浮かんでいた。あそこにはどんな風が吹いているのだろうか。できることならこの足でどこまでも歩いてゆきたい。しかし政治情勢がそれを許さなかった。
プタオ地方もクラン・クー地方同様ビルマ政府の支配下にある。1970年頃まではカチン独立軍第7大隊本部はプタオ盆地のまわりを転々としていたがビルマ軍の攻勢により1971年頃チャイ川以南へ、1975年頃からはマリ・クラン・ワロン地方へと移ることを強いられた。
それにつれてカチン独立機構が村人を組織できている解放区も北の方から失われていった。ビルマ軍が地域ごとに村人を自軍支配下の土地に強制移住させる作戦をとり多くの村が消滅させられてしまったからだ。
このようにカチン独立軍第七大隊が後退していった背景にはプタオ、クラン・クー、ソマイ川上流の各地におけるカチン独立機構・軍とラワンやヌンの人びととの対立がある。そこには複雑な事情もからみ合っているのだが、かいつまんで説明すると次のようになる。
プタオ地方にはシャン人(タイ・カムティ人とカチン人が住んでいる。人口がより多いカチン人の側はジンポー、ラワン、リスーといった三つの言語集団に分けられる。ただしラワンの人びととリスーの人びとは自分かちがカチン民族の一員だとは深く思っておらず、ふつうカチンといえばジンポーを指すと考える人が多い。
それはカチン民族のなかのジンポー、マルー、ラシー、アヅイー、ヌン、ラワン、リスーという7つの言語集団の間に古くから織りなされてきた共通の氏族の網の目がソフワンとリスーに関しては充分およんでいないことから来ているようだ。(ヌンの人びとについても同じことが多分に言える。)
そもそも7つの言語集団はそれぞれ独自の言語や親族同士の呼び方、子供の名づけ方民族衣装などを持っている。まじり合っている地方もあるが、もともとは住む地域も分かれていたという。しかし各地域は山や谷でへだてられながらも隣り合っているので村人どうしの交流も自ずと生まれてくる。
焼畑農業に支えられた暮らしぶりも同じようなものだし、共通の氏族の網の目を通じて男と女が結ばれ、子供や孫ができて親戚関係がひろがってゆく。精雲信仰の伝統に根ざす神話や儀礼や慣習など文化面でも似通ったところが少なくない。こうして長い年月をへて同じひとつの民族を成すという感情、帰属意識がつちかわれてきたのである。
ただ問題なのは7つの集団のうち前の四者はまじり合って住んだり、結婚し合う関係が積み重なって氏族の絆による結びつきも密なものになっているが、後の三者はそれほどでもなくカチン人としての一体感、帰属意識が薄い点である。
ラワンとリスーにはほかの集団と共通の氏族もあるが、共通かどうか不明の氏族やまったく独自のものらしい氏族もある。だからほかの集団との間では氏族の絆も弱く、自分たちはそれぞれ別の民族だという意識が芽ばえがちなのは避けられない。この点が対立問題の根っこの部分に横たわっているのだ。
1961年に発足したカチン独立機構の指導者や中核となったメンバー、カチッ独立軍のゲリラ将兵にはジンポーが比較的多く、ほかにマルーとラシーとアヅイーがそれぞれ同じくらいいた。その理由としては7つの言語集団中、ジンポーの人口が最も多いこと、ジンポー、マルー、ラシー、アヅイーが混住しているシャン州北部で組織が生まれ、やはり同じような状態のカチン州南東部へまず活動をひろめていったことがあげられる。
そのせいか組織の英語名ではカチンという言葉が使われたがカチン語(共通語であるジンポー語を指す)名ではフソンポー・ムンダン・シャンロット・プン」(ジンポー国独立機構)とされ、カチンのかわりにジンポーという言葉が用いられたのだった。
カチン独立軍の部隊が初めて北部山岳地帯にやって来たのは1963年である。村人の間に支持をひろげて志願兵をつのったときもそれにまず応じたのはジンポーが多く、次いでマルーやラシーの人たちが加わった。プーターオ盆地に入っだのは1964年になってからで、このときがプタオ地方、クラン川源流地方、ソマイ川上流地方にだけ住むラワンやヌンの村人とカチン独立軍の初めての本格的な接触だった。
「プタオ地方で真っ先にゲリラを支持したのはジンポーの村人で多くの若者が志願しました。リスーからの参加者は少なかっだけれど、いい関係ができそうでした。リスーの人たちはカチン州の南東部からシャン州にも住んでいてカチン独立軍のことはすでに知っていましたからね。問題が起きたのはラワンの人びととの間でした。もともと、ラワンとジンポー、ラワンとリスーの関係は、村の土地の境をめぐる争いや有力者どうしの反目などによってよくはなかったんです。
しかもカチン民族の一員という気持ちが薄いラワンの人たちはカチン民族独立軍はジンポー中心の組織であり、現にカチン語でジンポー国独立軍と名乗っている。もし自分たちが参加してもジンポーの下に置かれるだけだろうと考えたわけです」ウラーノー大尉は重い口を開いて語った。
カチン独立軍に対するラワンの人びとの心理が微妙に揺れ動くなか問題に火をつけたのは相互不信にもとづくスパイ処刑事件だった。ビルマ政府に意を通じたり政府にそそのかされたりした者がスパイを働いた場合とゲリラ側の誤解による場合の両方あったがカチン独立軍の手でラワン住民が処刑される事件が相次いだ。
それを機にラワンの人びとはビルマ政府側につき、反ゲリラの姿勢をかためていった。自らの勢力がおよぶ地域において否応なくひとつの政治権力・制度として機能してしまう反政府ゲリラ組織の過剰反応とでもいうべき処刑策がボタンのかけちがいとなって重大な問題を招いたともいえる。
タイ経済の「構造調整期」
1980年に誕生したフレーム政権は、この長期不況を受けて1981年に国際通貨基金(IMF)に対して緊急救済融資を1982年3月と1983年4月には世界銀行に対して合計3億2550万ドルの借款をそれぞれ要請する。一方、国際機関はタイに対して融資と引き換えに政策合意(コンディショナリティ)と呼ばれる経済政策の見直しを要求した。
具体的には為替の調整(1981年と1984年のパーツの切り下げ)、公営バスなどへの政府補助金給付の廃止、そして1980年当時七三社を数えた国営企業の見直しなどがそれである。
同時にフレーム政権はその後のタイのマクロ経済の運営に大きな影響を及ぼす新しい制度や枠組みを次々と導入する。例えば経済閣僚会議を新設し、公的対外債務の使途目的や金額の上限を検討する国家債務政策委員会を設置した。
あるいは政府と民間諸団体の間で経済問題を定期的に協議する「経済問題解決のための官民合同連絡調整委員会」を発足させた。このような経済構造の再編を目的とする世界銀行のプログラムは通常「構造調整融資」(SALS)と呼ばれる。1980年代前半のタイ経済を「構造調整期」と呼ぶのはそのためである。(末廣・東編2000年)
タイ経済を一変させる契機となったのはプラザ合意である。1985一年に先進5カ国の財務相・中銀総裁(G5)がニューヨークのプラザホテルに集まり、主要国の為替の国際調整を実施したのがプラザ合意である。
このあと日本の円は1985年の1ドル238円から翌1986年には218円へと急速な切り上げが進み、同時に韓国、台湾などのアジアNIES(新興工業経済群)の間でもドルに対する自国通貨の切り上げが進行した。この為替の調整は2つの異なる海外直接投資の動きに発展する。ひとつは日本企業の先進国向け投資を促した。
つまり日本から輸出していた工業品を消費地(アメリカなど)での現地生産に切り替えたのである。もうひとつは日本やアジアNIES企業による東南アジア向け投資の急増を引き起こした。こちらはアメリカ市場への迂回輸出が目的であった。そして後者の直接投資の恩恵を最も受けた国がほかならぬタイであった。
タイ向け直接投資の動向を投資委員会のデータをもとに整理したものである。プラザ合意から3年後の1988年を起点に直接投資が急増していることが分かるであろう。この第一次段階の投資ラッシュを牽引したのは日本企業であった。1990年に入るとアジアNIES企業がこれに加わる。
そして海外からの直接投資のあとを追う形でタイ人企業の投資も急増していった。それでは直接投資ブームはタイ経済をどのように変えたのか。この点を実質経済成長率と輸出金額(ドル赤字)の変化で確認しておこう。
何より目を惹くのは経済成長率をはるかに上回る輸出の伸びである。実際1985年から1995年の間に輸出は71億ドルから557億ドルヘと7倍以上に増加し、年平均伸び率は20%を超えたほどである。なお、図には示していないが製造業は1988年から1995年の間に年平均13%とGDP年平均成長率の10%よりも高い成長を示し、逆に物価上昇率は五%と相対的に低い水準にとどまった。
要約すると1988年から始まる経済ブームを引き起こしたのはフレーム政権が実施した構造調整政策の結果というよりも日本・アジアNIESのタイヘの企業進出ラッシュであり、彼らが推進した工業製品(繊維、家電、機械機器類)の迂回輸出の増加のほうであった。
輸出先はアメリカ市場である。この点はアジアNIESのキャッチアップ型工業化の発展パターンと変わらない。(末廣2000年)より重要な点はこの時期のタイが経済構造、産業構造、輸出構造、労働市場のすべての面で大きな変化を経験したという事実である。そこで経済ブームを間にはさむ1985年と1995年の間の変化をみてみよう。
GDPに占める一次産業(農林水産業と鉱業)の比率はこの11年間に28%から11%に低下し、製造業の比率は22%から28%に上昇した。次に製造業に占める軽工業と重工業の比率をみると1985年の60対40から1995年には45対55に逆転した。(重工業が軽工業を抜くのは1994年)
これ以後タイは自動車、鉄鋼、石油化学に代表される重化学工業を軸に発展の道を歩んでいく。輸出品の構成をみても同じ期間に農林水産物の比率は42%から28%へと劇的に低下し、逆に工業製品のそれは34%から65%へ大きく上昇した。
タイからの輸出品の顔ともいえるコメは1985年当時はまだ輸出全体の12%を占めていた。その比率は1995年には3%強にすぎない。労働市場をみても農林水産業の従事者が労働人口に占める比率は69%から47%へと低下し、生産労働者の比率は11%から21%へと上昇している。
以上の数字からも分かるようにタイは経済ブームのなかで農業国から工業国へと完全に離陸した。ところで世界銀行は1人当たりGDPが3000ドルを超えた国を「上位中所得国」と定義している。この定義にしたがえばタイは1996年(2965ドル)に「中進国」の仲間入りをほぼ果たしたことになる。
こうした急速な経済構造の変化はアジアNIESを別にすると他の発展途上国には見ることができない。アジア諸国の急速な工業発展を「東アジアの奇跡」と名づけた世界銀行は同行の報告書の中でタイをアジアNIES4ヵ国・地域(韓国、台湾、香港、シンガポール)に続く「第五の虎」と呼んだが、それには十分な根拠があったのである。(世界銀行1993年)
具体的には為替の調整(1981年と1984年のパーツの切り下げ)、公営バスなどへの政府補助金給付の廃止、そして1980年当時七三社を数えた国営企業の見直しなどがそれである。
同時にフレーム政権はその後のタイのマクロ経済の運営に大きな影響を及ぼす新しい制度や枠組みを次々と導入する。例えば経済閣僚会議を新設し、公的対外債務の使途目的や金額の上限を検討する国家債務政策委員会を設置した。
あるいは政府と民間諸団体の間で経済問題を定期的に協議する「経済問題解決のための官民合同連絡調整委員会」を発足させた。このような経済構造の再編を目的とする世界銀行のプログラムは通常「構造調整融資」(SALS)と呼ばれる。1980年代前半のタイ経済を「構造調整期」と呼ぶのはそのためである。(末廣・東編2000年)
タイ経済を一変させる契機となったのはプラザ合意である。1985一年に先進5カ国の財務相・中銀総裁(G5)がニューヨークのプラザホテルに集まり、主要国の為替の国際調整を実施したのがプラザ合意である。
このあと日本の円は1985年の1ドル238円から翌1986年には218円へと急速な切り上げが進み、同時に韓国、台湾などのアジアNIES(新興工業経済群)の間でもドルに対する自国通貨の切り上げが進行した。この為替の調整は2つの異なる海外直接投資の動きに発展する。ひとつは日本企業の先進国向け投資を促した。
つまり日本から輸出していた工業品を消費地(アメリカなど)での現地生産に切り替えたのである。もうひとつは日本やアジアNIES企業による東南アジア向け投資の急増を引き起こした。こちらはアメリカ市場への迂回輸出が目的であった。そして後者の直接投資の恩恵を最も受けた国がほかならぬタイであった。
タイ向け直接投資の動向を投資委員会のデータをもとに整理したものである。プラザ合意から3年後の1988年を起点に直接投資が急増していることが分かるであろう。この第一次段階の投資ラッシュを牽引したのは日本企業であった。1990年に入るとアジアNIES企業がこれに加わる。
そして海外からの直接投資のあとを追う形でタイ人企業の投資も急増していった。それでは直接投資ブームはタイ経済をどのように変えたのか。この点を実質経済成長率と輸出金額(ドル赤字)の変化で確認しておこう。
何より目を惹くのは経済成長率をはるかに上回る輸出の伸びである。実際1985年から1995年の間に輸出は71億ドルから557億ドルヘと7倍以上に増加し、年平均伸び率は20%を超えたほどである。なお、図には示していないが製造業は1988年から1995年の間に年平均13%とGDP年平均成長率の10%よりも高い成長を示し、逆に物価上昇率は五%と相対的に低い水準にとどまった。
要約すると1988年から始まる経済ブームを引き起こしたのはフレーム政権が実施した構造調整政策の結果というよりも日本・アジアNIESのタイヘの企業進出ラッシュであり、彼らが推進した工業製品(繊維、家電、機械機器類)の迂回輸出の増加のほうであった。
輸出先はアメリカ市場である。この点はアジアNIESのキャッチアップ型工業化の発展パターンと変わらない。(末廣2000年)より重要な点はこの時期のタイが経済構造、産業構造、輸出構造、労働市場のすべての面で大きな変化を経験したという事実である。そこで経済ブームを間にはさむ1985年と1995年の間の変化をみてみよう。
GDPに占める一次産業(農林水産業と鉱業)の比率はこの11年間に28%から11%に低下し、製造業の比率は22%から28%に上昇した。次に製造業に占める軽工業と重工業の比率をみると1985年の60対40から1995年には45対55に逆転した。(重工業が軽工業を抜くのは1994年)
これ以後タイは自動車、鉄鋼、石油化学に代表される重化学工業を軸に発展の道を歩んでいく。輸出品の構成をみても同じ期間に農林水産物の比率は42%から28%へと劇的に低下し、逆に工業製品のそれは34%から65%へ大きく上昇した。
タイからの輸出品の顔ともいえるコメは1985年当時はまだ輸出全体の12%を占めていた。その比率は1995年には3%強にすぎない。労働市場をみても農林水産業の従事者が労働人口に占める比率は69%から47%へと低下し、生産労働者の比率は11%から21%へと上昇している。
以上の数字からも分かるようにタイは経済ブームのなかで農業国から工業国へと完全に離陸した。ところで世界銀行は1人当たりGDPが3000ドルを超えた国を「上位中所得国」と定義している。この定義にしたがえばタイは1996年(2965ドル)に「中進国」の仲間入りをほぼ果たしたことになる。
こうした急速な経済構造の変化はアジアNIESを別にすると他の発展途上国には見ることができない。アジア諸国の急速な工業発展を「東アジアの奇跡」と名づけた世界銀行は同行の報告書の中でタイをアジアNIES4ヵ国・地域(韓国、台湾、香港、シンガポール)に続く「第五の虎」と呼んだが、それには十分な根拠があったのである。(世界銀行1993年)
— posted by チャッピー at 03:59 pm
ピブーン政権と正反対の政策
サリット首相の工業化政策はその骨子は一言でいえば外国企業をふくれ民間企業主導の「輸入代替型工業化」であった。つまり従来外国から輸入していた工業製品を国内で生産しようとしたのである。
そしてこれを実現するために1.国営・公企業の活動の抑制、2.国内民間企業の投資奨励、3.外国企業の積極的誘致、4.国内産業保護のための輸入関税の大幅引上げなどを掲げた。以上の方針にもとづいてサリット政権は一連の制度や法の整備を矢継ぎ早に実施していく。1959年には経済開発計画を立案する国家経済開発庁(NEDB)と国内外の投資奨励を統轄する投資委員会(BOI)をそれぞれ設置した。
そして翌1960年には「新産業投資奨励法」を制定する。これと並行して外国企業に対してはピブーン政権と正反対の政策をとった。具体的には1.外国人の出資を資本金の49%以下に規制するピブーン政権の方針の撤廃(したがって100%出資も可能)、2.外国人による土地所有規制の大幅な緩和(工場用地など)、3.配当・利益などの海外送金の自由化、4.民間企業における労働組合の結成の禁止など外資の積極的な誘致に努めた。
こうした一連の措置を受けて1960年代初めから日本を中心とする外国企業が本格的なタイ向け進出を開始するのである。さて、サリットの経済開発政策については次の一点をとくに指摘しておきたい。
第1は欧米留学組の経済テクノクラート(サリットのいう専門家)が経済計画や投資政策の策定に重要な役割を果たした点である。さきにしたがう形で工業化政策を構想したと述べた。その点を受けて同政権の経済政策を世銀勧告の単なる受け売りとみなす人は多い。
しかし世銀が調査を実施する際にタイ側が受けるとして「タイ・世銀連絡調整委員会」を設置し、世銀のスタッフと毎週、検討会議を開いていた事実はほとんど知られていない。
なお、この委員会の議長を務めていた人物は当時中央銀行総裁の地位にあったデート・サユダ。彼はサリットの革命後、請われて「革命団」の経済顧問団議長となり、さらに国家経済開発庁が設立されるとその初代長官に就任した。以後21年間タイの経済開発計画は彼の指揮のもとで作成される。
デート(1898年~1975年)はタイでは屈指の名門王族の出身であるが、1910年代にドイツのボン大学で経済学を修め、帰国後は商務省や中央銀行の要職を歴任した生粋の経済官僚だった。第2に当時の政府経済関連機関には外国人の経済顧問がいて、さきに述べたタイ人テクノクラートと緊密な関係を保っていた。
例えば大蔵省や国家経済開発庁にいたジョン・ロフタスやグレン・パーカー、投資委員会のベイツェルなどは財政改革や工業政策の推進面で重要な役割を果たした。大切なことは外国人の提言や議論を受け止めるだけの人材がタイ国内にはすでに存在し、あるいはフルブライト奨学金(1951年以降)などを使ってアメリカに留学した若い世代が帰国してこれらの諸機関の実務を支え始めたことである。
サリット政権以後の経済開発政策は決してアメリカの「押し売り」でもなければ世銀の「受け売り」でもなかった。タイにはこれを担う層が生まれつつあったし、サリダらの役割を重視したからである。タイでも日本でもサリット首相には「独裁者」のイメージがどうしてもつきまとう。
たしかに彼は首相の地位をはじめ陸軍司令官、警察局長官、国家開発省大臣など、あらゆる権力を個人のもとに集中し、自分に刃向かうものは容赦なく弾圧した。「革命」実施直後、40人をこえる知識人、学生、ジャーナリストたちを共産主義者の容疑で逮捕したりピブーン政権がいったん認めた労働組合に対し解散を命じたのはその一例である。
サリットの独裁体制をもっともよく伝えるのは彼が制定した「1959年暫定憲法」のなかの第17条、つまり「国家専王制に危害を与えるとみなしえる場合にはいついかなる場合であれ首相は断固とした措置をとる権限を有する」という首相非常大権の規程であろう。
これはサリット首相個人に対する畏敬とともに恐怖を表わす代名詞になった。事実彼はこの非常大権に依拠して放火犯人、麻薬密売者、共産主義容疑者などの多数の逮捕とその処刑を命じている。しかしだからといってサリット体制を恐怖政治や独裁体制のみで語るのは間違いであろう。
すでにみたように彼の一連の政策はこんにちのタイの政治・経済・社会のほぼすべての枠組みの出発点になったと私は思うからである。彼は陸軍主導の権力体制を確立した。ところが10年後にこれに反対し。民主化運動を推進する学生層をつくりだしたのも彼だった。地方開発に国王や僧侶がリーダーシップを発揮する原型を築いたのもやはり彼である。
そしてこれを実現するために1.国営・公企業の活動の抑制、2.国内民間企業の投資奨励、3.外国企業の積極的誘致、4.国内産業保護のための輸入関税の大幅引上げなどを掲げた。以上の方針にもとづいてサリット政権は一連の制度や法の整備を矢継ぎ早に実施していく。1959年には経済開発計画を立案する国家経済開発庁(NEDB)と国内外の投資奨励を統轄する投資委員会(BOI)をそれぞれ設置した。
そして翌1960年には「新産業投資奨励法」を制定する。これと並行して外国企業に対してはピブーン政権と正反対の政策をとった。具体的には1.外国人の出資を資本金の49%以下に規制するピブーン政権の方針の撤廃(したがって100%出資も可能)、2.外国人による土地所有規制の大幅な緩和(工場用地など)、3.配当・利益などの海外送金の自由化、4.民間企業における労働組合の結成の禁止など外資の積極的な誘致に努めた。
こうした一連の措置を受けて1960年代初めから日本を中心とする外国企業が本格的なタイ向け進出を開始するのである。さて、サリットの経済開発政策については次の一点をとくに指摘しておきたい。
第1は欧米留学組の経済テクノクラート(サリットのいう専門家)が経済計画や投資政策の策定に重要な役割を果たした点である。さきにしたがう形で工業化政策を構想したと述べた。その点を受けて同政権の経済政策を世銀勧告の単なる受け売りとみなす人は多い。
しかし世銀が調査を実施する際にタイ側が受けるとして「タイ・世銀連絡調整委員会」を設置し、世銀のスタッフと毎週、検討会議を開いていた事実はほとんど知られていない。
なお、この委員会の議長を務めていた人物は当時中央銀行総裁の地位にあったデート・サユダ。彼はサリットの革命後、請われて「革命団」の経済顧問団議長となり、さらに国家経済開発庁が設立されるとその初代長官に就任した。以後21年間タイの経済開発計画は彼の指揮のもとで作成される。
デート(1898年~1975年)はタイでは屈指の名門王族の出身であるが、1910年代にドイツのボン大学で経済学を修め、帰国後は商務省や中央銀行の要職を歴任した生粋の経済官僚だった。第2に当時の政府経済関連機関には外国人の経済顧問がいて、さきに述べたタイ人テクノクラートと緊密な関係を保っていた。
例えば大蔵省や国家経済開発庁にいたジョン・ロフタスやグレン・パーカー、投資委員会のベイツェルなどは財政改革や工業政策の推進面で重要な役割を果たした。大切なことは外国人の提言や議論を受け止めるだけの人材がタイ国内にはすでに存在し、あるいはフルブライト奨学金(1951年以降)などを使ってアメリカに留学した若い世代が帰国してこれらの諸機関の実務を支え始めたことである。
サリット政権以後の経済開発政策は決してアメリカの「押し売り」でもなければ世銀の「受け売り」でもなかった。タイにはこれを担う層が生まれつつあったし、サリダらの役割を重視したからである。タイでも日本でもサリット首相には「独裁者」のイメージがどうしてもつきまとう。
たしかに彼は首相の地位をはじめ陸軍司令官、警察局長官、国家開発省大臣など、あらゆる権力を個人のもとに集中し、自分に刃向かうものは容赦なく弾圧した。「革命」実施直後、40人をこえる知識人、学生、ジャーナリストたちを共産主義者の容疑で逮捕したりピブーン政権がいったん認めた労働組合に対し解散を命じたのはその一例である。
サリットの独裁体制をもっともよく伝えるのは彼が制定した「1959年暫定憲法」のなかの第17条、つまり「国家専王制に危害を与えるとみなしえる場合にはいついかなる場合であれ首相は断固とした措置をとる権限を有する」という首相非常大権の規程であろう。
これはサリット首相個人に対する畏敬とともに恐怖を表わす代名詞になった。事実彼はこの非常大権に依拠して放火犯人、麻薬密売者、共産主義容疑者などの多数の逮捕とその処刑を命じている。しかしだからといってサリット体制を恐怖政治や独裁体制のみで語るのは間違いであろう。
すでにみたように彼の一連の政策はこんにちのタイの政治・経済・社会のほぼすべての枠組みの出発点になったと私は思うからである。彼は陸軍主導の権力体制を確立した。ところが10年後にこれに反対し。民主化運動を推進する学生層をつくりだしたのも彼だった。地方開発に国王や僧侶がリーダーシップを発揮する原型を築いたのもやはり彼である。
— posted by チャッピー at 03:23 pm
インドネシア東部地域の開発政策
インドネシア東部地域の開発政策を議論する際、資源の不足とならんで「情報の欠如」という話が出てくる。州政府では「開発計画を策定するための基礎データ・情報がない」ことが問題とされ、また実業家と話をしていると「市場情報がないのでマーケティングできない」という話に落ちつく。はたして情報はないのか。
インドネシア東部地域の情報量がジャカルタや東京に比べて少ないことは確かだ。情報量にも需給関係が働くことを考えれば現在のインドネシア東部地域における情報賦存状況はしかたがない面もある。その一方で情報はあるのにそれを取得するコストを払いたがらない傾向が実業家などにうかがえる。
「いいものを作ったのだからバイヤーが来るまで待てばいい」という意識で自ら市場情報を探す行動をとらないのである。それよりも問題なのは、情報の共有が難しいことである。州開発企画局でたとえば州民所得の統計を探す場合「担当者がいないので統計が出てくるまで数日かかる」と平気で言われる。
統計などの情報は担当者がファイルし、鍵のかかる引き出しにしまう。でもその担当者は統計資料を管理するのが役目であって当該情報の収集や加工・分析をする役割は与えられていない。
ある議論で地域開発政策を進めるためには情報の共有が必要だと主張したところ「情報がカネになる以上それを占有しようとするのは当然」と一蹴された。南スラウェシ州の有力者や実業家は、小さな自分たちのグループを作り、その利害に基づいて行動する傾向がある。
たとえグループAもグループBも共にある計画がいいものだと認識していても、それがグループBによって提案されたものであれば、それだけでグループAはその計画を妨害することさえある。こうした状況でグループAとグループBが情報を共有することは考え難い。
小さなグループが自らの短期的な利益のみを最優先に考え、他のグループと情報を共有しようとしないのである。インドネシア東部地域でも誰もがグローバリゼーションを口にし、インターネットが利用可能な時代となった。インターネットが情報共有の推進にどんなインパクトを与えるかまだ不明だが旧来の人々の行動に再検討を迫るための環境づくりが少しずつ始まっていることだけは確かである。
マカッサルからみるとはるか離れたジャワ島でここ数年急速な工業化が進んでいるように感じる。実際、国内随一の穀倉地帯であったジャワ島の水田や畑が1990年代になると急速に消滅し、工業用地へ転換されていった。
ジャワ島がなおさら遠くなる感じである。ここ南スラウェシ州は今ではジャワ島と並ぶ穀倉地帯となっているが、工業化はまだまだ遠い世界だ。以前、当地を訪れたマレーシア人の大学生に開口一番「セミコンダクターの工場はどこにあるか」と聞かれ、軽いショックを覚えたことがある。
はたして現在のジャワ島で起こりつつあるような工業化の波はいずれこのインドネシア東部地域にも及ぶのだろうか。ジャワ島を離れる産業 近年ジャワ島外へ移転させる予定の産業が指摘されはじめた。製糖業がその代表例としてあげられる。1997年当時、政府はジャワ島にある56の製糖工場のうち段階的に27工場を閉鎖する計画であった。
ジャワ島の多くの製糖工場の生産設備は植民地期のもので老朽化していて生産が非効率的という理由からである。砂糖の国内生産は1996年現在200万トン(うち7割がジャワ島)で、それ以外に年間100万トンを輸入している。
ジャワ島の製糖工場を閉鎖する代わりにスマトラ島のランポン州に加えて南スラウェシ州、中カリマンタン州、東カリマンタン州、西ヌサトゥンガラ州、東ヌサトゥンガラ州、マルク州、東ティモール州(当時)、イリアン・ジャヤ州などの東部地域に新たに製糖工場を建設する計画を進めていた。これらの地域の乾燥地でのサトウキビ栽培の潜在生産力が高いからである。
この多くの新製糖工場を建設するのは主に民間部門である。たとえば1日当たり8000トン(サトウキビ換算)の生産能力をもつ工場を建てるには約2500億ルピア(約125億円)の投資と2万ヘクタールのサトウキビ畑が必要であり、政府資金では難しい。
東南スラウェシ州では1997年4月からクンダリ県で年産10万トンをめざす製糖工場の建設が開始された。イリアン・ジャヤ州では、繊維産業で有名なテクスマコ・グループが同州南部のメラウケ県に綿花、カシューナッツ、オイルパームと併せて製糖工場を建設する予定であった。南スラウェシ州では東北部のワジヨ県にサリムーグループが年産6000トンの工場建設を予定していた。
インドネシア東部地域の情報量がジャカルタや東京に比べて少ないことは確かだ。情報量にも需給関係が働くことを考えれば現在のインドネシア東部地域における情報賦存状況はしかたがない面もある。その一方で情報はあるのにそれを取得するコストを払いたがらない傾向が実業家などにうかがえる。
「いいものを作ったのだからバイヤーが来るまで待てばいい」という意識で自ら市場情報を探す行動をとらないのである。それよりも問題なのは、情報の共有が難しいことである。州開発企画局でたとえば州民所得の統計を探す場合「担当者がいないので統計が出てくるまで数日かかる」と平気で言われる。
統計などの情報は担当者がファイルし、鍵のかかる引き出しにしまう。でもその担当者は統計資料を管理するのが役目であって当該情報の収集や加工・分析をする役割は与えられていない。
ある議論で地域開発政策を進めるためには情報の共有が必要だと主張したところ「情報がカネになる以上それを占有しようとするのは当然」と一蹴された。南スラウェシ州の有力者や実業家は、小さな自分たちのグループを作り、その利害に基づいて行動する傾向がある。
たとえグループAもグループBも共にある計画がいいものだと認識していても、それがグループBによって提案されたものであれば、それだけでグループAはその計画を妨害することさえある。こうした状況でグループAとグループBが情報を共有することは考え難い。
小さなグループが自らの短期的な利益のみを最優先に考え、他のグループと情報を共有しようとしないのである。インドネシア東部地域でも誰もがグローバリゼーションを口にし、インターネットが利用可能な時代となった。インターネットが情報共有の推進にどんなインパクトを与えるかまだ不明だが旧来の人々の行動に再検討を迫るための環境づくりが少しずつ始まっていることだけは確かである。
マカッサルからみるとはるか離れたジャワ島でここ数年急速な工業化が進んでいるように感じる。実際、国内随一の穀倉地帯であったジャワ島の水田や畑が1990年代になると急速に消滅し、工業用地へ転換されていった。
ジャワ島がなおさら遠くなる感じである。ここ南スラウェシ州は今ではジャワ島と並ぶ穀倉地帯となっているが、工業化はまだまだ遠い世界だ。以前、当地を訪れたマレーシア人の大学生に開口一番「セミコンダクターの工場はどこにあるか」と聞かれ、軽いショックを覚えたことがある。
はたして現在のジャワ島で起こりつつあるような工業化の波はいずれこのインドネシア東部地域にも及ぶのだろうか。ジャワ島を離れる産業 近年ジャワ島外へ移転させる予定の産業が指摘されはじめた。製糖業がその代表例としてあげられる。1997年当時、政府はジャワ島にある56の製糖工場のうち段階的に27工場を閉鎖する計画であった。
ジャワ島の多くの製糖工場の生産設備は植民地期のもので老朽化していて生産が非効率的という理由からである。砂糖の国内生産は1996年現在200万トン(うち7割がジャワ島)で、それ以外に年間100万トンを輸入している。
ジャワ島の製糖工場を閉鎖する代わりにスマトラ島のランポン州に加えて南スラウェシ州、中カリマンタン州、東カリマンタン州、西ヌサトゥンガラ州、東ヌサトゥンガラ州、マルク州、東ティモール州(当時)、イリアン・ジャヤ州などの東部地域に新たに製糖工場を建設する計画を進めていた。これらの地域の乾燥地でのサトウキビ栽培の潜在生産力が高いからである。
この多くの新製糖工場を建設するのは主に民間部門である。たとえば1日当たり8000トン(サトウキビ換算)の生産能力をもつ工場を建てるには約2500億ルピア(約125億円)の投資と2万ヘクタールのサトウキビ畑が必要であり、政府資金では難しい。
東南スラウェシ州では1997年4月からクンダリ県で年産10万トンをめざす製糖工場の建設が開始された。イリアン・ジャヤ州では、繊維産業で有名なテクスマコ・グループが同州南部のメラウケ県に綿花、カシューナッツ、オイルパームと併せて製糖工場を建設する予定であった。南スラウェシ州では東北部のワジヨ県にサリムーグループが年産6000トンの工場建設を予定していた。
— posted by チャッピー at 03:16 pm
越僑がベトナムに帰国して生活していくのは困難であったようである
1996年~1998年の段階でも、越僑がベトナムに帰国して生活していくのは困難であったようである。一例を挙げよう。米国から1997年に里帰りしたトゥオン氏(当時45歳)に話を聴いたことがある。彼は米国で展開していた建築資材の会社をベトナムでも立ち上げ、祖国の復興のために役に立ちたいと家族の反対を押し切って帰国した。
だが会社を設立するためにホーチミン市の関係部局に行ったところ、多額の袖の下を支払わないと経営登録許可はすぐには出せないと言われたという。不正は出来ないといって賄賂の支払いを拒否したところ、許可は滞在期間中には出なくなった。それで、米国に戻らざるを得なくなったという。
いったん米国に戻って再度1年後にホーチミン市に戻ってきたが、他にもいろいろな嫌がらせを受けたという。たとえば、親戚から借りた自家用車で街を走っていたところ、交通警官に止められて運転免許証の提示を求められて越僑だと分かると車両不整備だという理由にもならない理由で多額な反則金を請求されたという。
結局、まだ時期尚早でとても越僑がビジネスを行なう環境ではないと諦めたという。こういう事態は最近まで続いていたが、事態の改善に決定的だったことは2000年に施行された企業法だと言われている。経営登録手続きの公式化と簡素化が図られた。これによって、袖の下を払わずに、越僑でも誰でも会社の経営登録許可を得ることが出来るようになったのである。そして民間企業に課されていた諸規制も併せて撤廃された。
だが、それでも共産党政府と旧「南」政府関係者が多い越僑との間には深い相互不信がわだかまっていた。戦後30年以上を経過してようやくベトナム政府も本格的に越僑を受け入れる体制を構築した。長い準備期間の後、2007年8月からどの国の国籍を取得していても両親どちらかがベトナム国籍を有していたことで申請人がベトナム人であることが証明されれば本国へはビザなしで渡航することが許可されることになった。
具体的に言うとビザなし帰国を希望する者は各国の大使館か領事館に出頭してベトナム人であることが証明でき、かつ反体制の政治活動をしない誓約書を提出して審査に合格すれば、証明書が発行される。その証明書を入国時に提示すれば、入国出来るというシステムである。
この許可を一度取得して事故さえ起きなければ、越僑は自由に祖国に入国できるという利点が越僑側にはある。他方、ベトナム政府にとっても利点がある。各国出先機関で事前調査をして、越僑をスクリーニング出来るからである。つまり危険な同胞はブラックリストに掲載して入国させずに害を及ぼさないと判断した越僑はビザなしで入国を許可するという、いわば全世界越僑管理システムを作り上げたのである。世界に散らばる越僑の実態を本気で把握しようとするベトナム政府の決意が表われている。
さらに外国籍のままでもベトナムの土地や建物を合法的に取得出来るという制度を新設した。それまではベトナム国籍の者しか土地建物を取得できず、越僑は国籍が違えば国内で自分の家を購入することもままならなかった。戦争終了後32年たって初めて越僑が正式に帰国して定住することが認められたのである。越僑は2006年には実質100億ドルにおよぶ祖国への送金をしている。この越僑の協力をどう得ることが出来るかにベトナムの将来がかかっている。
だが会社を設立するためにホーチミン市の関係部局に行ったところ、多額の袖の下を支払わないと経営登録許可はすぐには出せないと言われたという。不正は出来ないといって賄賂の支払いを拒否したところ、許可は滞在期間中には出なくなった。それで、米国に戻らざるを得なくなったという。
いったん米国に戻って再度1年後にホーチミン市に戻ってきたが、他にもいろいろな嫌がらせを受けたという。たとえば、親戚から借りた自家用車で街を走っていたところ、交通警官に止められて運転免許証の提示を求められて越僑だと分かると車両不整備だという理由にもならない理由で多額な反則金を請求されたという。
結局、まだ時期尚早でとても越僑がビジネスを行なう環境ではないと諦めたという。こういう事態は最近まで続いていたが、事態の改善に決定的だったことは2000年に施行された企業法だと言われている。経営登録手続きの公式化と簡素化が図られた。これによって、袖の下を払わずに、越僑でも誰でも会社の経営登録許可を得ることが出来るようになったのである。そして民間企業に課されていた諸規制も併せて撤廃された。
だが、それでも共産党政府と旧「南」政府関係者が多い越僑との間には深い相互不信がわだかまっていた。戦後30年以上を経過してようやくベトナム政府も本格的に越僑を受け入れる体制を構築した。長い準備期間の後、2007年8月からどの国の国籍を取得していても両親どちらかがベトナム国籍を有していたことで申請人がベトナム人であることが証明されれば本国へはビザなしで渡航することが許可されることになった。
具体的に言うとビザなし帰国を希望する者は各国の大使館か領事館に出頭してベトナム人であることが証明でき、かつ反体制の政治活動をしない誓約書を提出して審査に合格すれば、証明書が発行される。その証明書を入国時に提示すれば、入国出来るというシステムである。
この許可を一度取得して事故さえ起きなければ、越僑は自由に祖国に入国できるという利点が越僑側にはある。他方、ベトナム政府にとっても利点がある。各国出先機関で事前調査をして、越僑をスクリーニング出来るからである。つまり危険な同胞はブラックリストに掲載して入国させずに害を及ぼさないと判断した越僑はビザなしで入国を許可するという、いわば全世界越僑管理システムを作り上げたのである。世界に散らばる越僑の実態を本気で把握しようとするベトナム政府の決意が表われている。
さらに外国籍のままでもベトナムの土地や建物を合法的に取得出来るという制度を新設した。それまではベトナム国籍の者しか土地建物を取得できず、越僑は国籍が違えば国内で自分の家を購入することもままならなかった。戦争終了後32年たって初めて越僑が正式に帰国して定住することが認められたのである。越僑は2006年には実質100億ドルにおよぶ祖国への送金をしている。この越僑の協力をどう得ることが出来るかにベトナムの将来がかかっている。
— posted by チャッピー at 03:09 pm