文化や歴史の多様性

そのような根本思想にあっては、自己理解と他者理解と公共世界理解が根源的に結びつかなければならないという意味あいをこめて、本書では「自己-他者-公共世界」理解という表現をたびたび用いてきました。では、グローカルな公共哲学は、一体どのような「自己-他者丿公共世界」理解を基盤とするべきでしょうか。一九、二〇世紀の公共哲学的自己論を振り返るならば、「国民的な自己」は、フィヒテの思想に代表されるように、帝国主義・植民地主義に抵抗する「近代的自己」という側面をもっていました。そしてそれは、たとえば、近代中国などにみられるような、植民地主義に抵抗する「抵抗のナショナリズム」の担い手のモデルとなりうるものでした。また他方、それは、日本での福沢諭吉に代表されるように、穏健な漸進的国内改革の担い手としての「近代的自己」としても描かれました。

しかしそのような自己に対し、「非国民としての他者」は、論理必然的によそよそしいものとならざるをえなかったのです。そしてこのよそよそしさは、新しき自己の生成にとって他者との和解が必要と考えたヘーゲルですら、非ヨーロッパ的な人間を遅れた人間と片づける「ヨーロッパ(ゲルマン)中心主義」をとったことによく現れています。それに対し、二一世紀のグローカル公共哲学はむしろ18世紀末にとなえられたカントの「世界市民的自己」という理念に立ち返るところから出発しなければならないでしょう。

カントにとって「近代的自己」となることは第一義的に世界市民的な意識をもつことでした。それは世界政府を想定せずに永久平和をめざす諸国家連合の一員というレベルで、各自が十分もちうる意識とされたのです。

この思想の伝統はストア派のコスモポリタニズムに由来するように思われますが日本でも安藤昌益の宇宙論的で平等主義的な社会観や横井小楠の「公共の天理」思想に端緒がうかがえます。

21世紀のグローカル公共哲学の基盤となる自己論においては「世界市民的自己」を現代的に「地球市民的自己」と言い換えてそれを不可欠な構成要素とすべきことをまず強調しなければなりません。具体的にそれは「地球レベルでの公共性」を念頭におき「他者と協力」してグローバルな諸問題と真剣に取り組む自己として理解されるでしょう。

しかしまたアングロアメリカ型のモノカルチュラルで均質なグローバリズムに対して「文化や歴史の多様性」を相互に理解しあう21世紀のグローバル公共哲学は「地球市民的自己」によって自己以外の次元を包摂してしまうような普遍主義をとることもできません。

なぜならそうした普遍主義はグローバリズム同様に文化の差異や公共空間の多様性の認識に関してあまりに無頓着になりがちだからです。思想史的に振り返るならばそのような普遍主義批判のプロトタイプ(原型)はカントの論争相手ヘルダーの思想にすでに見出すことができます。

言語学者でもあったヘルダーは言語の違いが各文化の差異やローカリティを特徴づける決定的な要因であり、その差異を殺すのではなく活かす方向に人類は進まなければならないと主張しました。

そうでなければある特定の言語ないし文化が他の言語や文化を支配するという「文化的帝国主義」が幅をきかすようになると考えたのです。

ヘルダーにとって警戒すべきは何よりも普遍主義という名の文化的帝国主義や強国による文化支配でした。これに対抗する「多文化の共存的発展」を彼は提唱したのです。しかし19世紀以降カントの「世界市民」の理念が裏切られたようにこのヘルダーの「多文化共存」の理念も大きく裏切られる方向に歴史は展開しました。

— posted by チャッピー at 12:42 pm