インド人移民はさまざまな理由で国を出た。初めは英国人に駆り出される形で隷属的な労働者として外国に移住した。そして戦後は自由意志で出稼ぎを決めた。さらに1980年代以後は、留学生、研究者あるいは優れた技術者として先進諸国で大きな役割を果たすようになった。
かつて貧しかったインド移民も今日では多くの場合、専門職に就き中産階級以上の生活を享受するようになり、送金と投資を通じ、本国の経済発展に大きく寄与するに至った。
インドの持続的な経済発展にとって印僑の果たす役割は大きいものがあるが、外の世界とのかかわりを積極的に追求し始めたインドにとっては経済以外のさまざまな分野でも世界に広がっている印僑の経験と国際感覚が今後大いに役立つと思われる。インド経済を支えている好調なサービス産業のなかでもとくに成長率の高いのはITのソフト部門である。
年成長率は1990年代において年平均50%を超える成長を遂げており、新世紀に入ってもその勢いは衰えていない。ではなぜインドはITソフトにおいて瞳目すべき急成長を遂げることができたのであろうか。コンピューターの製造・輸入に関する規制を漸進的に解除し、コンピューター文化を促進するような産業を奨励したので、ソフトウェアの開発・輸出が重視されるようになった。
この政策には印僑、特に米国に留学しシリコンバレーで活躍していた若者達の情報が好刺激を与えていた。ITソフト産業の立ち上げには重工業化のような大きな資金を必要としない。割り切っていえば、パソコンに電話線とパラボラアンテナさえあれば直ちに立ち上げることができ輸出さえもできるという点で開発資金の不足していたインドにとってはぴったりの新産業であったのである。
1970年代の後半以来、私は訪印するごとに主として首都圏で学生や社会人に日本についての講演をすることにしてきたが、日本人学生に比べてインド人は概して理屈っぽく論争好きである。国際会議を成功させるために議長が心得るべき要諦は「日本人にしゃべらせ、インド人を黙らせることである」というジョークがあるのは、さもありなんと思ったことがよくある。
インドの旅では路上で果物や日用品を売っている農民や商人から買い物をすることが多いが、小学校をまともに出たかどうかという彼らがさっと引き算をしてお釣りを渡すのに計算を誤ることはない。足し算をしなければ釣りが渡せない欧米「先進国」の商人よりはよほど計数に長けている。
歴史と環境のなかで作られた民族の特性というものはある。私の限られた経験からしてもインド人は一般に数理には強いといえるが、歴史をふり返ればゼロを発見し、アラビア数字の元となる数字や記数法を作り、論理学を発展させ、深遠な仏教哲学を育んできた国であり、その伝統は今やITソフト技術に継承されていると言ってよいのであろう。
小学校で日本人は「九九」を学ぶが、インドでは「19×19」を暗記するという。2桁の「いくいく」は、重複暗記を除いて比較しても1桁の「くく」の四倍強の暗記を必要とする。「詰め込み教育はいけない」「暗記の強制は自主性を損なう」などという当世の日本で流行中の「進歩的」スローガンに同調していたならばインドはITソフトの振興どころか世界に冠たるインド商人も生まれなかったことだろう。
高校用の数学教科書を見せてもらったことがあるが厚みが全然違う。一流高校で用いている数学教科書のレベルはある日本人教授の話では日本の工学部2年に相当するとのことであった。インドの大学の理科系学部を大きく理学系(理論科学)と工学系(応用技術)に分けると日本とは異なり理学系の学生数がはるかに多い。
ハード(物作り)に強い日本とソフト(論理)に強いインドとの相違がここにもはっきりと現れている。1909年にバンガロールで創設された理系専門大学院のIIS(インド科学大学院大学)をはじめ理系の高等技術者を育成する優れた高等教育機関がインドには存在していた。
独立後を見ても1950年代に米国のMIT(マサチューセッツエ科大学)をモデルにしたIIT(インド工科大学)が創設され、全国に6つのキャンパスを有して優秀な学生を集めている。入学試験科目は数学、物理、化学の三科目であるが、定員の何十倍もの学生が応募する競争は激甚で、日本の「入試地獄」などはこれに比べれば「極楽」だと言われるほどである。
1960年代にはIITを補完する大学として経営学専門のIIM(インド経営大学)が作られ、その後全国に技術系の大学やIT専門の職業訓練学校が生まれている。「コンピューター政策」が発表されて以後はそれが加速され、経済自由化後は印僑を含む民間企業が資金を出して私立の技術系大学を設立する動きが拡大している。
インドのシリコンバレーとして有名になったバンガロールだけでも、77の工科大学があり約3万人の学生を毎年送り出している。業界団体の推計では2000年3月でインド企業で働いているソフト技術者は34万人とされるが、これは米国に次ぐ世界第二であり、その後も高給で待遇が良く、海外勤務も可能なこの魅力的な職を目指して優秀なインド人技術者が増え続けている。大学卒の技術者だけでも毎年10万人以上を数えている。