人民行動党は1959年の政権獲得直後から弱い政権基盤を補うために官僚の取りこみを始めていた。1959年8月にはトップ官僚に対する政治教育を目的に「政治学習センター」を開設し、受講手当てを支給して政府の政策や計画についての講義を受けることを義務づけ、同党への政治的支持を促した。
一方、住宅開発庁や経済開発庁などの準政府機関の設立と運営には官僚の経験や知識が必要であったため、リー・クアンユーは官僚の役割重視を常に強調した。当初は人民行動党の容共路線に懐疑的であった官僚層が、リー・グループの「右傾化」とともにその政策を評価し始めたのはこの頃からである。
さらに市評議会(中心部シティを統括する市役所のような行政機関)が廃止されて、その行政事務が官僚に委託されたことや準政府機関の運営が利益主義をとったことも官僚を刺激した。人民行動党分裂時には官僚の多くがリー・グループを支持していたといえる。
独立以後は官僚層が人民行動党若手指導者の最大の供給源となり、官僚出身政治家が若手指導者のトップ集団を形成している。その結果、党が行政組織や官僚を完全に掌握し、党組織と同じかそれ以上に活用している。すなわち政府の行政機構は支配政党と完全に一体化しているのである。人民行動党が社会の「ベスト・アンド・ブライテスト」であるのだから、野党は必要ないという考え方に基づき、野党を含めた批判勢力は徹底的に取り締まられた。
すでに述べたように1960年の労働組合法によって組合の活動は制限され、労働組合運動は人民行動党政府の主導下に統一されていたのだが独立後、労働組合は完全にその本来の役割を失わせられた。そういった政策は「労働組合は、国益という大きな枠組みで運動を考えなければならない」(ゴーケンスイ蔵相)という主旨の下でなされたのであるが、これによって野党が労働組合を支持基盤として運動を進めることは不可能になった。
学生の政治運動にも厳しい規制が行なわれた。大学受験には他の必要書類とともに生徒の「適性証明書」が要求されることになった。これは応募者が過去に共産主義運動に関わったことがないことを政府が証明するもので、特に政治学や哲学を専攻しようとする生徒の「適性証明」は厳密になされた。1966年このような政府の大学に対する露骨な介入に反対して座りこみや試験ボイコットを行なった学生に対し、政府は逮捕や追放処分を科し、政府の断固たる態度をみせつけた。
また、この頃から党の幹部が大学の理事に任命されたり、教授陣や学生組織に入ることによって大学への影響力も行使しつつあった。党委員長トー・チンチャイのシンガポール国立大学副学長就任は、大学と政府の関係を如実に物語っている。こうして野党の社会主義戦線は労働組合と学生組織の支持基盤を完全に失った。
野党はその後も人民行動党政府から「合法的に」取り締まられている。「合法的に」というのは政府は反対勢力の動向に合わせ、その動きを封じる法を次から次に制定して合法的に抹殺してしまうからである。1981年のアンソン選挙区補欠選挙で野党・労働者党のジャヤラトナム書記長が人民行動党候補者を破り13年ぶりに国会に人民行動党以外の議員が生まれた。
彼は1984年の総選挙でも再選された。インド系の弁護士である彼は国会で一貫して反人民行動党の姿勢を堅持し、政府追及の論戦は迫力十分で、大きな目と浅黒い皮膚、がっちりとした体型からしてまさに反体制の闘士といった雰囲気であった。
「ジャヤラトナムはたった1人で本当によくやっている。ただ、色々なことを一度に言いすぎるけどね」これはシンガポール国立大学の友人の平均したジャヤ評である。しかし、たった1人でも人民行動党ぱ彼を見逃さなかった。1983年過去の労働者党の党会計報告に虚偽の記載があったとしてジャヤラトナムは人民行動党から告訴された。
告訴された4件のうち3件を棄却した判事マイケル・クーは更迭された。再告訴の末、ジャヤラトナムは有罪判決を受けたが、彼はクーの更迭を取り上げて行政の司法への介入を非難した。すると人民行動党は国会議員の特権に関する法を改定、ジャヤラトナムの非難は「国会議員の特権の乱用」であるとしてジャヤラトナムに罰金と国会からの追放を言い渡したのである。