アラブ首長国連邦の経済

日本が原油を輸入している最大の相手国がアラブ首長国連邦(UAE)である。アラブ首長国連邦とはアラビア半島からペルシャ湾に突起した半島の一部にある7つの首長国で形成する連邦国家である。連邦を構成している代表的な首長国はアブダビとドバイである。2005年7月の推定人口はわずか256万人であるが、そのうち約160万人は外国人であると推定されている。

総人口の約半分は東南アジアの人種である。年齢別構成の推定比率は0~14歳が25.3%、15~64歳が71.1%、65歳以上は3.6%である。1971年の連邦形成以前は英国の支配下にあった。連邦の元首はアブダビ首長である。彼は71年のUAE建国以来、大統領を務めてきたザーイド・ビンスルターン・アールナフヤーン前大統領(兼アブダビ首長)が2004年11月に死去した後を継いで新大統領に就任した。

7つの首長国の代表40名で構成されている連邦評議会が設けられているが、このメンバーは各首長によって任命されてきた。評議会は立法権は持かないが最高意思決定機関である7首長国の最高評議会に意見を進言することができる。ただし民主化の波はアラブ首長国連邦にも押し寄せている。

2005年12月1日にハリーファ大統領は評議会のメンバーの半分の選出に選挙制度を導入することを発表した。これはアラブ首長国連邦にとって初の選挙となる。2004年の実質GDP成長率は5.7%、名目のGDP総額は2003年が798億ドルであった。1人あたりにすると2万2千ドルとなる。

部門別にみたGDP内訳は農業4%、工業58.5%、サービス業37.5%であるが就業人口の構成比は7%、15%、78%となる。産油国であるために石油関連産業が7要産業であるが、UAEの特徴は非石油部門のGDPに占める比率が比較的高いことである。それはドバイをはじめとして産業の多角化を図ってきたからである。

1981年にはドバイ郊外にジュベイリ・フリーゾーンを設置し外国企業を積極的に誘致してきた。外国企業に対して税制面で優遇したり、100%外資の承認などを行ったことが外国企業を引き寄せる要因となり、物流センターとして活況を呈している。2003年4月時点での進出企業数は2250社である。

ジュペイリ・フリーゾーンに続いてシャルジャとアブダビにもフリーゾーンが設けられて成功している。また、ドバイとアブダビは金融センターとしての可能性を求めて2000年に証券市場を開設した。2005年9月には外貨建て証券市場もオープンした。

2002年には「ドバイ国際金融センター」の設立を発表した。このセンターは金融のオフショアセンターを目指すものである。最近では2005年11月に中東初の商品先物取引所となる「ドバイ金・商品取引所」を開設した。扱う商品は金のオプションから始めるが段階を追って銀の先物とオプション、鉄、綿花、海上運賃、船舶燃料など、さらには石油先物も取り扱う予定である。

ドバイ政府が50%、インドの2社が50%出資する。湾岸地域においてこれまではバーレーンが金融センターとしてのポジションを得ていたが今後はドバイに中心が移りそうな気配である。2005年3月から米国との2国間自由貿易協定(FTA)交渉を開始した。

2003年3月米英軍がイラク攻撃を開始しフセイン体制はあっけなく解体した。その後のイラク情勢は2006年春現在依然として治安が回復された状態ではないがアメリカブッシュ政権は次の標的としてイランを注視している。アメリカはイランを「悪の枢軸」と呼び、イランはアメリカを「大悪魔アメリカ」と呼び、イランの町並みの壁のあちこちに「モルグ バル アムリカ(アメリカに死を)」という落書きが書かれている。

2005年8月に新大統領を誕生させたイランは新たな重大な節目の時期を迎えた。大統領選挙が行われハタミ大統領に代わりアフマディネジャド新大統領が選ばれた。イラン国民は穏健改革派から一転して保守強硬派の大統領を選んだ。

決して改革・民主化を望まなかったわけではない。8年間ハタミ政権下で試みた改革運動がむなしかったことを身にしみて感じた結果である。国民の意思を代表させようと直接投票で大統領を選んでも大統領は最高権力者ではないのである。

国会議員の選挙で国民が自分の意見を反映させてくれる候補者に投票しようとしても、その候補者が事前審査にパスしなければ立候補ができないのである。その審査を保守派が牛耳る機関が行う限りイランで改革派が勝利して改革を実行することはできない。イランの歴史的な対外関係、イスラム共和国という政治体制を生んだイラン革命、今世界の注目を集めている核開発疑惑問題までを取り上げよう。

— posted by チャッピー at 04:59 pm