日本軍のなかにはタキン党員に同情する勢力も存在したが基本的には彼らを若く過激な民族主義者と認識し、そのため非タキン党系で反英活動のために1940年以降投獄されていた年長のベテラン政治家バモオ(1893年~1977年)を利用しようと考え、彼を軍政の枠内に設置した中央行政府の長官に登用した(1942年8月)。
当時49歳のバモオはビルマが英領インド帝国から分離され直轄植民地になった1937年4月から1939年2月までビルマ人として初の首相を務めた人物である。議会内でウー・ソオとの権力闘争に敗れたあとタキン党と組んで反英大衆闘争を指導し、そのため当局によって投獄されていた(1940年)。そうした反英の経歴が日本の東條英機首相に気に入られ、日本占領期においてビルマ政治の表舞台に復帰することになった。
バモオは博士号を持つ教養人で英語もうまく、実際の行政においてはアウンサンやウー・ヌ(1907年~1995年)らタキン党員らも重用するなど、それなりのバランス感覚を有した。しかし立ち居振舞いに独裁者的な様相が目立ち、民衆の支持は強くなかった。また現地の日本軍の一部からも嫌われた。
日本は東南アジアに侵攻した比較的初期からフィリピンとビルマには将来の早い段階で「独立」を与えることを約束していた。フィリピンの場合すでに1935年、米国によって独立が約束され、その準備政府(コモンウェルス政府)が機能していたなかを侵攻したのでフィリピン人の不満を招かないためには「独立」を認めないわけにはいかなかった。
ビルマについては南機関による工作活動の経緯があり、また何よりもタキン党などの反英独立運動の勢力が強かったため、ナショナリズムを無理やり抑えこむことより「独立」を認めて日本に協力させた方が得策であるとみなした。
もっとも、ここでいう「独立」はあくまでもカギカッコをつけた独立であり、アウンサンたちBIAが求めた主権独立国家ではなく日本の指導下にある大東亜共栄圏内の制限された主権国家を意味した。すなわち必要とあれば日本が内政に介入できる余地を保障した「独立」に過ぎなかった。
1943年8月1日ビルマはバモオを国家元首兼首相に据えて「独立」し、枢軸国側10ヵ国から国家承認を受け、対米英宣戦布告まで行なう(アウンサンはこの時、国防大臣に就任)。しかし、その「独立」の実態は深刻な問題を伴うものであった。
「独立」政府は日本軍が戦争終了まで引き続き国内にとどまり行動の自由を保障されるという秘密協定を結ばされ、その結果、バモオ政府は国内の日本軍に対して何の権限も有さない立場に置かれた。1944年2月にバモオが反バモオ派の日本軍関係者によって暗殺されそうになった時も、その容疑者を逮捕したり裁判にかけたりすることは許されなかった。
また「独立」を境にビルマ防衛軍(BDA)からビルマ国民軍(BNA)に改編されたアウンサン率いるビルマ人の軍隊(ビルマ国軍)も相変わらず日本軍(ビルマ方面軍)から軍事顧問を多数送りこまれ監視を受ける立場に置かれた。日本占領期においては人々の生活環境も悪化した。
1942年の雨季明け(10月)から早くも開始された連合軍による反撃のための空襲は人々の命を脅威にさらしたばかりでなく、国内流通インフラを破壊したため悪性インフレを進行させ、一方で反日思想を取り締まる憲兵隊によってなされた拷問や一部将兵によってなされたピンク(頬打ち)や婦女暴行、農村における家畜の徴発も彼らを苦しめた。
険しい山の中をタイとビルマをつなげる泰緬鉄道建設工事や国内各地におげる強制を伴った労働力動員も大変に評判が悪かった。独立後のビルマの歴史教科書(国定)や政府公認の歴史書にはこれらの事柄が忘れてはならない事実として記述されている。
このほか裸足で入るべき寺院やパゴダ(仏塔)の境内に軍靴のままあがったり、人前で裸を見せることを極端に嫌今ビルマ人の民族性を考慮しないで平気で彼らの前で全裸になり水浴びをしたことも多くのビルマ人の対日観を悪化させた(この話は今でもビルマのお年寄りからよく聞く)。ちなみにビルマにも多くの慰安婦が連れてこられ、アウンサン率いるビルマ国軍も日本軍をまねて同様の施設を国内に開設したという記録が残されている。