5月クムボイ村から一度だけカカボラジ山群を遠望した。白く硬い光をたたえた鋭い弧のつらなりが幻のごとく浮かんでいた。あそこにはどんな風が吹いているのだろうか。できることならこの足でどこまでも歩いてゆきたい。しかし政治情勢がそれを許さなかった。
プタオ地方もクラン・クー地方同様ビルマ政府の支配下にある。1970年頃まではカチン独立軍第7大隊本部はプタオ盆地のまわりを転々としていたがビルマ軍の攻勢により1971年頃チャイ川以南へ、1975年頃からはマリ・クラン・ワロン地方へと移ることを強いられた。
それにつれてカチン独立機構が村人を組織できている解放区も北の方から失われていった。ビルマ軍が地域ごとに村人を自軍支配下の土地に強制移住させる作戦をとり多くの村が消滅させられてしまったからだ。
このようにカチン独立軍第七大隊が後退していった背景にはプタオ、クラン・クー、ソマイ川上流の各地におけるカチン独立機構・軍とラワンやヌンの人びととの対立がある。そこには複雑な事情もからみ合っているのだが、かいつまんで説明すると次のようになる。
プタオ地方にはシャン人(タイ・カムティ人とカチン人が住んでいる。人口がより多いカチン人の側はジンポー、ラワン、リスーといった三つの言語集団に分けられる。ただしラワンの人びととリスーの人びとは自分かちがカチン民族の一員だとは深く思っておらず、ふつうカチンといえばジンポーを指すと考える人が多い。
それはカチン民族のなかのジンポー、マルー、ラシー、アヅイー、ヌン、ラワン、リスーという7つの言語集団の間に古くから織りなされてきた共通の氏族の網の目がソフワンとリスーに関しては充分およんでいないことから来ているようだ。(ヌンの人びとについても同じことが多分に言える。)
そもそも7つの言語集団はそれぞれ独自の言語や親族同士の呼び方、子供の名づけ方民族衣装などを持っている。まじり合っている地方もあるが、もともとは住む地域も分かれていたという。しかし各地域は山や谷でへだてられながらも隣り合っているので村人どうしの交流も自ずと生まれてくる。
焼畑農業に支えられた暮らしぶりも同じようなものだし、共通の氏族の網の目を通じて男と女が結ばれ、子供や孫ができて親戚関係がひろがってゆく。精雲信仰の伝統に根ざす神話や儀礼や慣習など文化面でも似通ったところが少なくない。こうして長い年月をへて同じひとつの民族を成すという感情、帰属意識がつちかわれてきたのである。
ただ問題なのは7つの集団のうち前の四者はまじり合って住んだり、結婚し合う関係が積み重なって氏族の絆による結びつきも密なものになっているが、後の三者はそれほどでもなくカチン人としての一体感、帰属意識が薄い点である。
ラワンとリスーにはほかの集団と共通の氏族もあるが、共通かどうか不明の氏族やまったく独自のものらしい氏族もある。だからほかの集団との間では氏族の絆も弱く、自分たちはそれぞれ別の民族だという意識が芽ばえがちなのは避けられない。この点が対立問題の根っこの部分に横たわっているのだ。
1961年に発足したカチン独立機構の指導者や中核となったメンバー、カチッ独立軍のゲリラ将兵にはジンポーが比較的多く、ほかにマルーとラシーとアヅイーがそれぞれ同じくらいいた。その理由としては7つの言語集団中、ジンポーの人口が最も多いこと、ジンポー、マルー、ラシー、アヅイーが混住しているシャン州北部で組織が生まれ、やはり同じような状態のカチン州南東部へまず活動をひろめていったことがあげられる。
そのせいか組織の英語名ではカチンという言葉が使われたがカチン語(共通語であるジンポー語を指す)名ではフソンポー・ムンダン・シャンロット・プン」(ジンポー国独立機構)とされ、カチンのかわりにジンポーという言葉が用いられたのだった。
カチン独立軍の部隊が初めて北部山岳地帯にやって来たのは1963年である。村人の間に支持をひろげて志願兵をつのったときもそれにまず応じたのはジンポーが多く、次いでマルーやラシーの人たちが加わった。プーターオ盆地に入っだのは1964年になってからで、このときがプタオ地方、クラン川源流地方、ソマイ川上流地方にだけ住むラワンやヌンの村人とカチン独立軍の初めての本格的な接触だった。
「プタオ地方で真っ先にゲリラを支持したのはジンポーの村人で多くの若者が志願しました。リスーからの参加者は少なかっだけれど、いい関係ができそうでした。リスーの人たちはカチン州の南東部からシャン州にも住んでいてカチン独立軍のことはすでに知っていましたからね。問題が起きたのはラワンの人びととの間でした。もともと、ラワンとジンポー、ラワンとリスーの関係は、村の土地の境をめぐる争いや有力者どうしの反目などによってよくはなかったんです。
しかもカチン民族の一員という気持ちが薄いラワンの人たちはカチン民族独立軍はジンポー中心の組織であり、現にカチン語でジンポー国独立軍と名乗っている。もし自分たちが参加してもジンポーの下に置かれるだけだろうと考えたわけです」ウラーノー大尉は重い口を開いて語った。
カチン独立軍に対するラワンの人びとの心理が微妙に揺れ動くなか問題に火をつけたのは相互不信にもとづくスパイ処刑事件だった。ビルマ政府に意を通じたり政府にそそのかされたりした者がスパイを働いた場合とゲリラ側の誤解による場合の両方あったがカチン独立軍の手でラワン住民が処刑される事件が相次いだ。
それを機にラワンの人びとはビルマ政府側につき、反ゲリラの姿勢をかためていった。自らの勢力がおよぶ地域において否応なくひとつの政治権力・制度として機能してしまう反政府ゲリラ組織の過剰反応とでもいうべき処刑策がボタンのかけちがいとなって重大な問題を招いたともいえる。