ピブーン政権と正反対の政策

サリット首相の工業化政策はその骨子は一言でいえば外国企業をふくれ民間企業主導の「輸入代替型工業化」であった。つまり従来外国から輸入していた工業製品を国内で生産しようとしたのである。

そしてこれを実現するために1.国営・公企業の活動の抑制、2.国内民間企業の投資奨励、3.外国企業の積極的誘致、4.国内産業保護のための輸入関税の大幅引上げなどを掲げた。以上の方針にもとづいてサリット政権は一連の制度や法の整備を矢継ぎ早に実施していく。1959年には経済開発計画を立案する国家経済開発庁(NEDB)と国内外の投資奨励を統轄する投資委員会(BOI)をそれぞれ設置した。

そして翌1960年には「新産業投資奨励法」を制定する。これと並行して外国企業に対してはピブーン政権と正反対の政策をとった。具体的には1.外国人の出資を資本金の49%以下に規制するピブーン政権の方針の撤廃(したがって100%出資も可能)、2.外国人による土地所有規制の大幅な緩和(工場用地など)、3.配当・利益などの海外送金の自由化、4.民間企業における労働組合の結成の禁止など外資の積極的な誘致に努めた。

こうした一連の措置を受けて1960年代初めから日本を中心とする外国企業が本格的なタイ向け進出を開始するのである。さて、サリットの経済開発政策については次の一点をとくに指摘しておきたい。

第1は欧米留学組の経済テクノクラート(サリットのいう専門家)が経済計画や投資政策の策定に重要な役割を果たした点である。さきにしたがう形で工業化政策を構想したと述べた。その点を受けて同政権の経済政策を世銀勧告の単なる受け売りとみなす人は多い。

しかし世銀が調査を実施する際にタイ側が受けるとして「タイ・世銀連絡調整委員会」を設置し、世銀のスタッフと毎週、検討会議を開いていた事実はほとんど知られていない。

なお、この委員会の議長を務めていた人物は当時中央銀行総裁の地位にあったデート・サユダ。彼はサリットの革命後、請われて「革命団」の経済顧問団議長となり、さらに国家経済開発庁が設立されるとその初代長官に就任した。以後21年間タイの経済開発計画は彼の指揮のもとで作成される。

デート(1898年~1975年)はタイでは屈指の名門王族の出身であるが、1910年代にドイツのボン大学で経済学を修め、帰国後は商務省や中央銀行の要職を歴任した生粋の経済官僚だった。第2に当時の政府経済関連機関には外国人の経済顧問がいて、さきに述べたタイ人テクノクラートと緊密な関係を保っていた。

例えば大蔵省や国家経済開発庁にいたジョン・ロフタスやグレン・パーカー、投資委員会のベイツェルなどは財政改革や工業政策の推進面で重要な役割を果たした。大切なことは外国人の提言や議論を受け止めるだけの人材がタイ国内にはすでに存在し、あるいはフルブライト奨学金(1951年以降)などを使ってアメリカに留学した若い世代が帰国してこれらの諸機関の実務を支え始めたことである。

サリット政権以後の経済開発政策は決してアメリカの「押し売り」でもなければ世銀の「受け売り」でもなかった。タイにはこれを担う層が生まれつつあったし、サリダらの役割を重視したからである。タイでも日本でもサリット首相には「独裁者」のイメージがどうしてもつきまとう。

たしかに彼は首相の地位をはじめ陸軍司令官、警察局長官、国家開発省大臣など、あらゆる権力を個人のもとに集中し、自分に刃向かうものは容赦なく弾圧した。「革命」実施直後、40人をこえる知識人、学生、ジャーナリストたちを共産主義者の容疑で逮捕したりピブーン政権がいったん認めた労働組合に対し解散を命じたのはその一例である。

サリットの独裁体制をもっともよく伝えるのは彼が制定した「1959年暫定憲法」のなかの第17条、つまり「国家専王制に危害を与えるとみなしえる場合にはいついかなる場合であれ首相は断固とした措置をとる権限を有する」という首相非常大権の規程であろう。

これはサリット首相個人に対する畏敬とともに恐怖を表わす代名詞になった。事実彼はこの非常大権に依拠して放火犯人、麻薬密売者、共産主義容疑者などの多数の逮捕とその処刑を命じている。しかしだからといってサリット体制を恐怖政治や独裁体制のみで語るのは間違いであろう。

すでにみたように彼の一連の政策はこんにちのタイの政治・経済・社会のほぼすべての枠組みの出発点になったと私は思うからである。彼は陸軍主導の権力体制を確立した。ところが10年後にこれに反対し。民主化運動を推進する学生層をつくりだしたのも彼だった。地方開発に国王や僧侶がリーダーシップを発揮する原型を築いたのもやはり彼である。

— posted by チャッピー at 03:23 pm