ムガル朝の太祖であるバーブルは中央アジアのモンゴル族系の出自であった

ムガル朝の太祖であるバーブルは中央アジアのモンゴル族系の出自であったが、アラビア人の歴史家などがモンゴルをムガル(またはモグル)と呼んだので、ムガル朝という名で知られるようになったのである。バーブルは1511年に、カーブルを拠点として、かねて念願していた緑豊かなインド遠征の軍を起こし、内紛で衰退しつつあったロディ朝の軍を破り、一気にデリーとアクラを占領して、自らインドの皇帝であると宣言した。

その後1530年に病死するまでに、彼はほぼ北インド全域を支配下に置いている。ムガール帝国が南インドにも版図を拡大したのは、積極的な領土拡大政策を展開した3代アクバルの時代である。彼の50年に及ぶ長い治世において、ムガル朝は15の州を抱え広大な地域を支配する帝国としての基盤が確立された。

アクバルが死去した1605年から六代のアウランゼーブ帝が亡くなるまでの1世紀ばかりは、帝国の最盛期であった。帝国の物産は豊かであり、世襲制でない適材適所の採用原理に基づく官僚制が整備され、国内の交通網も整備された。東西交易の中心に位置していたことによる英大な収益もあり、銀の流人が続いていた。

5代のジャー・ジャハーン帝(在位1628年~1658年)が愛妃のために造営し、今なおインドを代表する建造物として世界遺産に登録され、国内外から多数の観光客を集めている白亜のタジマハールは、最盛期にあった帝国の豊かな富を象徴している。しかし18世紀に入ると、いくつかの問題点が浮上してきた。第1は財政問題である。度重なった外征や反乱鎮圧のための軍事費支出が大きな負担になっていた。政府は官位を乱発したが官位に見合った給与は保障されていなかった。

そこでアクバル帝時代の俸給制から土地の徴税権による収入をあてる領地制に変えられた。領地を得た役人は短期間で多くの収入を得ようとして農民からの収奪を強化したため、農村を荒廃させる結果となった。第2に、宗教政策である。アクバルは臣民の多数を占めるヒンドゥとの融和が重要であると考え、イスラム教では異教徒に課すことを通例としていた人頭税をも廃止した。さらに自らヒンドゥの妃を迎えることもしたのである。

アクラ郊外に造った宮殿は、イスラム様式を基本としながら、ヒンドゥ様式をも取り入れている。ところが、アウランゼーブ(在位1658年~1707年)はスンニ派の熱心な信者であったために「帝国のイスラム的性格を回復」しようと考え、宮廷の風習からヒンドゥ色を一掃し、ヒンドゥに対する敵意を露わにした宗教的差別政策をとるようになった。

「異端者の寺院学校をすべて破壊せよ」との命令や、人頭税の復活はその例である。その結果は宗教と地方の民族感情が混合した反乱や抵抗運動を引き起こすことになった。しかし村落における民衆の生活が、宗教の相違のみによって対立関係にあったなどと考えるのは誤りである。両教徒は、貴族や士族も含め、政治的な利害対立が絡まない限り、普段は平和に共存していたのである。

イスラムは一神教であり、ヒンドウは多神教であるから教義的に相容れない、だから常に対立するのだという説をなす者がいるが、これは一知半解の意見であり、歴史の実態をキチンと押さえた議論が必要である。宗教対立には実は政治的・経済的な世俗の利害対立が絡まり合うことが圧倒的に多いのである。第3に、皇位継承問題がある。イスラム王朝ではしばしばみられることであるが、王位継承権をめぐって血なまぐさい対立抗争が起きることが稀ではない。

ムガール帝国では皇位継承に関する成文法がなかったために、皇帝の死後王位継承者達の間で抗争がしばしば起こされた。この抗争は有力な貴族や武将を巻き込んで行われることが多く、それは帝国の安定を根底から揺るがすことになった。第四に、地域支配勢力の問題である。18世紀半ばになると、帝国の崩壊過程は誰の目にも明らかになりつつあった。力を備えた地方政権は中央からの自立を進め、あるいは帝国に対して反旗を翻した。

中央の支配力は低下し、帝国内の分権化が進行した。ところが、こうして地方の支配圏を固めた太守のなかには、自分達の利益さえ守られれば外国勢力と簡単に妥協することをいとわない者が少なくなかった。外国の支配に対して民族的利益を守るため一致団結して戦うという共同行動がとれないだけでなく、利害の対立していた他の地方政権をやっつけるために、進んで外国と手を組むということも稀ではなかったのである。

その結果外国勢力は、各個撃破で抵抗勢力を次々と支配下に置くことが容易になったのである。第5に海への備えである。歴史上亜大陸を支配した勢力は、西北のアフガニスタンを経由してやってきた内陸国であった。中央アジアの内陸から起こり次第に亜大陸に版図を広げてきたムガール朝も例外ではない。

それまで北インドに限られていた版図を拡大し、海岸に接した地方を支配下に置き海外貿易によって多大の収益を挙げていたにもかかわらず、基本的には内陸勢力、陸地志向勢力であり、海洋志向の帝国ではなかった。この結果、海から亜大陸支配を狙ってくる武装した海上勢力に対しては、十分な備えを欠いていたのである。これが国家を挙げて海外膨張を競い合った西欧列強に対して、大きな弱点となったといえる。

— posted by チャッピー at 02:04 pm